OB・OG会

創部30周年部誌

創立30周年に当って

部長平 良

義塾バドミントン部は本昭和47年をもって創立30年を迎えた。いうまでもなく,30年というのは大学バドミントン部として最古の歴史を意味する。また今から30年前の昭和17年は太平洋戦争の最もはげしかった時であり,それからの変遷を考え合わせるなら創立に,生い立ちにどれだけ苦労があったかということは容易に想像されることであろう。

すでに退職された寺尾先生,故人になられた奥井先生が戦中,戦後の混乱期に部の振興に心をくばられ,それをひきついだ白石先生が部長を退かれ,わたくしが部長をついでからでもすでに8年にわたろうとしている。この間,バドミントン部は長い間わが国のバドミントン界をリードし,バドミントン人口の拡大に大きな貢献をして来たと自負している。もっともこの数年間は必ずしも日本や大学バドミントンをリードして行くだけの戦力を欠いているが,バドミントンというスポーツの拡大がその人ロを拡大し,また日本全体としてはすでに世界をリードして行くだけの力を持つにいたっていることに義塾バドミントン部のともした灯がいささかでも役立つところがあったのではないかと一思っている。

わたくしがいうまでもなく,バドミントンは簡単なルールによって誰にでも出来るという長所がある。それが庭先や道路での遊戯として広く拡まっている理由でもある。またある種のスポーツと異って年齢に相応して出来るという利点を持っている。それと共に一歩進めるなら高度の技術を要請される複雑なスポーツでもあり,単に一匹狼であることを許さないチームワークを基礎にしたダブルスのプレイもあるといった,手軽であると同時にスポーツに期待される多くの要素を獲得できるものでもあろう。いささか自画自賛的とはいえ今後も部とバドミントンの振興に力を注ぎたいと思っている。

すでに述べたように,ここ数年間の戦績は必ずしも良いものではなかった。スポーツには「参加することに意味がある」といった一面があるが,同時にそれが口実になって厳しい鍛錬を避ける結果になりやすい。「参加するからには努力を」といったことがつけ加わる必要もあろう。30周年を穫会に努力が重ねられて慶応義塾バドミントン部が再び大学,日本,世界のバドミントン界をリードするにふさわしい部となるよう祈っている。

 

創立30年に際して

三田バドミントンクラブ会長

吹野家寿吉

慶応義塾に同好の集りとして発足して以来30年を迎え,月日の経つのは早いものとつくづく感ぜられます。その間多大の御援助,御指導を頂いた歴代の部長先生,体育会理事及び諸先輩に対して厚く御礼申し上げます。我部が現在あるのも,塾内関係の御援助と共に日本協会をはじめとし,各大学の並々ならぬ御協力の賜ものと深く感謝する次第であります。

30年の歴史の内には種々の想い出があり,その一つ一つが忘れえぬ場面として今でも鮮明に残って居ります。特に小生が監督として務めた昭和29年からの5年間は昨日の様に思い出されます。監督就任の時,三田の演説館に現役を集めて初めて抱負を語った時が大雪であったこと,就任の年に春秋のリーグ戦で優勝した感激,合宿前のトレーニングで現役と一緒に走ったこと,多摩川堤を往復した時の苦しかったことや33年の秋のリーグ戦初日に自ら坊主頭になったこと,その直後の四国のインターカレッヂで現役の坊主頭で高校生に間違えられたこと、その大会準決勝で最終戦セットオールで第3セット10-1とリードされてから逆転勝ちした事など思い出せば数かぎりなく昨日のようにはっきり思い出され非常に懐しく思い出されます。その5年間の短い体験でも全員で協力ー致してやれば必らず出来るという信念を得た事は,その後の小生の人生においても大いに役立っている事を今更ながら感謝している次第であります。現在の学生は昔と違うといわれますが,トレーニングの方法又は技術の吸収の方法には進んだ方法が取られるのは当然でありますが,人間何かをする場合如何にすべきかという点は変わりないと思います。

今後共,我部が隆盛になり,又バドミントン界をリードするを切に希望すると共に,永遠に発展

する事を願って止みません。

 

30周年にあたって

監督 宮永武司

まったくもって月日のたつのは早いもので,我バドミントン部も30周年を迎えることになりました。丁度10年前に私自身が現役四年生の時20周年記念であちこちとかけめぐった思い出もあり,なんとも言えない感激です。バドミントンも近年でこそ一般に広く行きわたりつつあり,ラケットを持っていてもテニスと間違えられることもなくなりましたが,諸先輩のお話しを伺ってみるとこの30年間という年月そのものが日本のバドミントンの歴史でもあると思います。慶応義塾体育会にあっては歴史の浅い我が部ではありますが,先輩各部の皆様を見習いつつ今日迄無事歩んで来ることが出来ました事を思い,今後共立派な活動を続けなくてはと決意を新らたにしております。かっては,日本のパドミントン界に名をはせた我が部も最近はどちらかと言うと戦績面ではパッとし

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ませんが,「学生スポーツとしてのあり方」を十二分に理解しつつ出来る限りの努力を重ねています。私自身吉田先輩のあとを受継ぎ監督という大役を引き受けてから早や4年目を迎えますが,最近の学生スポーッ選手についてまだまだもの足りないもの一以前と比較するのは極めてむつかしい訳ですが一を感じ,何とかしてバドミントンを通じて学生時代を意義あるものとして生かせる様なバドミントン部確立に向って部員ともども話し合い頑張りたいと思っています。またさらに,私を含めた部員全員の念願でもある早慶定期戦優勝を最重点目標にして練習を積重ねるつもりです。つぎにもう一つの願いでもある一部復帰をはかり,再び日本バドミントン界の桧舞台へと飛躍の道を目指して行きたいと思います。最後に現在まで温かくご支援いただいた塾体育会はじめ,日本バドミントン協会関係者の皆様に今後ともより一層のご指導をお願いする次第です。

 

祝創部30周年

日本バドミントン協会副会長

森友徳兵衛

(昭和19年卒)

昭和15年にバドミントンのラケットを握った私は,戦中戦後を経て知らない内に30有余年をこのスポーツ界に費して了ったことになる。のみならず現況から推し測れば一寸やそっとで足を抜く訳に行かない状態になって了っていて,“これは大変”と思う一方,人生の楽しい一面をこわすにしのびないという複雑な心境にある。

昭和和17年10月7日の午後3時神田の東京YMCA地下食堂で創設された我が慶応義塾大学バドミントン部は,輝やかしい競技歴と幾多の不朽の名選手を生み育て,結果として戦後目覚ましい興隆を承し他の競技に例を見ない急速な成功を納め,世界1位の女子チーム,同3位の男子チームを確固として創り上げた大きな実績の原動力となっている。このことは日本のバドミントン史をひもとく人の全てが例外なく認め称える処のものである。本年10月正に我が部は30周年となる。時移り人変って次々と我が部をになう者が誠意の努力を惜しまなかった積み重ねがこの黄金の歴史30年であり,幸せにも創部のメンバーの一員であった私は限りない喜びと誇りと,また周囲の方々,後継者の人々に対し感謝の念を新たにするものである。

昭和37年9月7日日吉に於て宮永主将のときに創部20周年が盛大に行なわれた。36年1月に日本バドミントン協会の理事長になった私は,丁度この時ジャカルタの第4回アジア競技大会に日本代表チーム監督として遠征中であったので,栄えの式典に参列する機を逸したのである。

慶応バドミントン部の価値は,ラグビー部やフェンシング部についても同じであると思うが,日本史のどの協会やチームに比しても歴史上,組織上最古であって負けることがないことである。歴代のキヤプテを一つとって見ても慶応に比するに足るものはなく,全て歴史が若い。また古いものがあったとしても,もうろうとして切れ目がある。歴史,記録の刻みが系統立ってきちんとしているのは何といっても大学の部であることの強みであると思、う。現在から将来にかけて後継者が同

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じように努力する限り,この誇りは永遠に続き追いつかれ追いぬかれることはあり得ないのであ

る。この上現在競技力が抜群で,日本代表チームに現役でもO.B.でもぞろりと名を連ねていれば錦上花をそえるに応わしいことでさろう。日本のバドミントンは世界に冠たる地位にある。併し我が部の競技力は少々わびしいーー大したこととはいえないまでも残念なことではある。

30年頃だったが,大阪のとある場所で私は加賀(旧仲地)君と我が部,我が0.B.の将来のあり

方について語り合ったことがある。結論は次の通りであった。今迄我々は我が国のトップレベルの選手を創り出すことに全力を注いだ。その結果各大学は強くなり,全国的にも普及が顕著となった。この目的は一応成功したと思うので,これからの我々は世界に対する日本のバドミントンを伸張発展せしめるために,良き指導者として一慶応のことより高次元の考え方をもって進むべく,現在O.B.を指導しようということであった。日本バドミントンの発展の原動力を我々がになおう,という意味になるが,私自身後年日本協会を引受ける結果となった理由の一つはこの会談にあったように思えるのである。諸外国に対して日本と言う名の重責を負った私は何回も難関に遭遇したが,何時も頭の中に浮んだことは塾の名誉ということであった。私は負けられない一私のうしろには大慶応がある一この気持は現役諸君がコートの上でラケットを手にするとき常に頭に浮ぶこどど町じものであると私は信じている。〃大慶応のためと〃を我々の合言葉として,40周年に向っての新しい第一歩を堂々とふみ出して戴きたいと願う次第である。

 

想い出

小宮淳宏(27年卒)

昭和23年度

部誌を開くと四月に……全日本選手権が永田町小学校に於て行なわれ,六角主将を始め三橋,

藤井,広田,小宮が出場し……とある。おそらくこの時だったと思うのだがトーナメントの進行

中に,優勝すべき責任を負って居る広田は絶えず場内に目を光らせていたが色の黒い小男がグリーンのセーターを着てプレーをしてるのを指して「あのアオタンボは油断が出来ない」と異常に警戒し出した。彼等は何回戦目かであたってよいゲームをしたが,それがイスマエルであった。だから次の頁からわが部員としてイスマエルとオマルモヨの戦績が記載されて居る。

……10月に練習所を横浜YMCAより慶応幼雅舎体育館に移す………とあるのは広田の父君がY

M体育主事をなさって居り,わが部はたいへん御世話になった。わが国バドミントンの元祖として周知の方である。又広田は日本の生んだ最大のプレーヤーである。幼稚余でゆ.糠ζ諦計=

小さな後輩達が可愛ン小嚇'ぐちζ呉れた。当時は用具と共に練習場の取得に大変な苦労を要

した。広田と私は横浜に住んで居たので練習のあと品川から国鉄に乗ったが,車輌不足から客車の代用に貨物車が連結されることが多く,たまたまみんなの敬遠するそのはこに乗り込んで他の客が居なかった時横浜迄シャトルの打ち合いをした事もあった。

昭和24年度

……本年より新たに部長に奥井復大郎教授を載き,監督に加賀幹男氏就任する。……とある。奥井先生はいつもおだやかで,又いつもいばって居られる様に見えた。気分が向かないとふてくされてしまう私の試合態度を学者らしい観察で心配された。先生について多く書けないのが残念だけれど一言でいえば終始かばって下さったと言う実感を私は持つ。

葉山の合宿は天木さん石井さんが手配され食料難の折で奥井先生が御自作のさつまいもを差し入れられた。六角,三橋両先輩が気合を入れにやって来て「もたもた走った奴はグランド三周だ」と宣言した。私は自分の貧弱な体力を知って居るので超然としていた。皆が尻込みしたのは一番もたもたした私を於いてしては潜越だと思ったからではなかったろうか,藤井主将が独りで三周した。大分後に何処かの風呂場で法大のI君がものたれた手付で背中を流してくれた,「後輩にも先輩に対しても私にはなかった経験だな」と思った。その後玉一一

 

ので気をつけて居るのだが別にそんな風には思えないがなあ,真面目に書いて居るようだがなあ」その時のお顔が気の毒になるほど心配そうに見えたので「そうです。大丈夫です。」とついうけあってしまった。「体育会の方がうまく行かない様だね」,「はあ」そこへ構浜Y.M.で時々お見かした五郎さんが入って来られて私共学生に肩を持つようなことを二,三言って下さった。「そうかあ,そうかあ」それからくどくどと御自分の予定を話されその中で三田に出向く機会のあることを言われた。幾日か過ぎてうちに電話があり,お身体の具合で大変に聞きとり難い声で長い報告めいたことを伺ったが内容はよくわからなかった。何んでも今年はうまく行くだろうとのことで,はあそうですかと返事をしたが電話を切ってから平沼亮三さんだと気がついた。41年に私が監督した子チームが世界選手権をとった時,喜こんで下さった方々の中に,平沼さんと奥井先生が亡かったのは淋しかった。あの世等は,信ずるべきではないのだらうがこのお二人には,あの世でもう一度お目にかかりたい。先年照井さんにお目にかかった時,20年も前のことをよく覚えて居られるのに驚きながら,私もいろいろと思い出してしまった。

昭和26年度

これ迄はわが部は常勝といってよかったけれど,この春のリーグ戦で優勝を逸した。戦力的には

には広田と私か残っていて前田の進境があり,岡と愚弟の加入があったのだからその梅いは大きい。

…最悪のシーズンと終った部員一同は必勝を期し館山市に夏季強化合宿練習を行なうとある。

館山の合宿では前田主将が大腸カタルでダウンした。彼は実に立派な男で我々が誇るに足るキャプテンであった。病人がねている隣室でSが真険な顔をして「小宮さん見て下さい,私も変なのです」と言って尻の穴を向けた。だしぬけだったたのでむしろ泰然自若と答えることか出来た。「何でもないよ,普通だよ。」それで無事に合宿をつとめて呉れたがいぼぢの前兆だっ々かも知れない。あれは視覚と触覚とに於いて著じるしく差異のあることを後年知った。前田も直きに立ち上り新婚早々の森友監督御夫妻を迎えて紅白試合等を行なった。森友さんについても多くを書けない次機となったがとにかくわがバドミントン界の支柱的人物であり対外国にも大きな役割りを果して居られる。

秋期リーグで優勝をとり戻し12月に大学,学生選手権を向かえた。卒業,就職をひかえてしんどい行事であったが団体戦をとり,個人戦では秩父宮妃殿下御観戦の下に広田新主将が単で優勝し,複を広田と私が,3位を岡と愚弟がとった。閉会式で私達はリッヂウエー夫妻に握手を求められた。威礼並びなき占領軍総司令官夫人は美人のほまれが高かった。森友監督が寄って来られ「どうだいどんな匂いがした?」と妙な祝福をされた。

書くべき事をほとんど残した儘紙数をオーバーしてしまったが,そもそもこの様な仕事はもっと几帳面なO.B.の負うべきものであった。けれども加藤さんや永川,戸田の助力が得られれぱ,来るべき40周年の機会には責任を果したい。

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楠三郎

(32年卒)

創部30周年おめでとうこうざいます。

且って幾度か日本バドミントン界の王座を占め「試合に出れば必らず勝つ」選手がゴロゴロしていた塾のバドミントン部が二部という姿で30周年を迎えねばならぬとは,いかに時の流れとはいえ誠に淋しく残念に思います。「人間・楽しかった時より苦しんだ時の思い出の方が強く印象に残る」と言われますが,こわい先輩と鬼の様な監督(どなたでしたか名前は忘れましたが?……)の下で新入部員時代を送ったのは昭和28年の頃です。

19年前のことでも辛かった時のことは不思議とよく覚えています。夏休みの猛暑下でのマラソン,合宿での今日言葉で言えぱ特訓に当るマンツーマンのしごきは青春時代の尊い心地よい汗だったなあと今でもなつかしく,思い出されます。

われら32年組は最近でもしばしぱ銀座で夜のOB会を重ねておりますが,社会に出て既に15年,若い女子社員からは「中年のおじ様」と呼ぱれる年代になりましたが,そんな時に必らず一度は話題に出るのが合宿や練習での辛かった体験で楽をした時のことは絶対といっていい程思い出としては残っておりません。

先日体育会の先輩にお会いしました折聞いた話ですが,且っての塾の体育会各部は早稲田と優勝を争うのが常識になっていたのに最近では最下位を争うケースの方が多い。悪くするとバドミントン部の様に,一部と二部に別れてしまってリーグ戦で顔を合わもる事も出来ない部がいくつか有るとのことでした。

他の大学が強くなったのか,塾が全般的にレベルダウンしたのか原因は種々あると思いますが,宮永監督以下現役諸君,精一杯日々の練習に打ち込み一日も早く一部に復帰して下さい。

この次40周年の部誌を出版する時は往年の日本バドミントン界でのリーダーシップを奪還し,早稲田と優勝を争える様な部になってもっと景気の良い事を書きたいと念願しております。

現役,OB共々もっともっと汗をかきましよう。

現役はバドミントンで!!

そしてOBはゴルフで!!

 

高井貞夫

(36年卒)

昭和33年度主将江井

鋭いスマッシュ,落差の大きいドロップ,二人が一体となったダブルス・・世界バドミントン選

手権アジア地区日本代表選手となった越川選手を初め,四年生の江井,藤井,三年生の豊場,二年

生の佐藤,佐竹と慶応バドミントンの伝統ある技術を継ぎ,十分その威力を発揮した時代であり,

女子も佐藤,高橋,藤井,藤林と優秀選手を揃えていた。バドミントン界では,立教が,佐藤,片

石,永井,板垣と全日本代表選手を擁し,その王座は揺ぎなく,二位を争う慶応,明治,法政の激

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突は,各大会で手に汗を握るものであった。

春,秋のリーグ戦,全日本選手権と,立教についで,男女共,常に二位を占めた事は,高く評価

されるべきであり,特に女子の全日本の決勝で京都女子に最後のシングルスの一セットを取り

ながら敗れての二位は,惜しまれた。伝統の対抗戦相手の早稲田は未だ弱く,塾の層の厚さもあって,男子13-2,女子3-0で圧倒していた。

昭和34年度主将豊場

レギュラー三選手を送り出し,一年生の中村,山田,藤田を新たに加えてのリーグ戦は,選手層

の厚い立,明,法に苦戦し、春,秋のリーグ戦共四位であった。立教の宮沢,永井,板垣,小宮の

圧倒的強さはリーグ戦に,東日本,全目本選手権,個人戦に発揮された。又明治の五井,渡辺,法

政の小田,星野,平野と,ミスをせずに粘りに粘りぬく新しいバドミントンをする選手が出現し,

立,慶の力でおすタイプと好対照の対決が見られた。

女子では,三年生の岡本,藤井,平岡,成願に,新入戦に単複優勝の二年生中村が加わったが,

男子と同じく,春,秋リーグ戦共四位に終り,個人戦でも関東選手権に,藤井,成願組が二位にな

ったのにとどまった。大型新人と期待された一年生の中村,山田,蒔田も次第に力をつけ,全日本

個人戦にベスト8入りをとげ,全日本団体戦では,再び二位の座を保つ事が出来た。豊場主将を助

ける福田,尾関,伏島鬼軍曹のもと,きびしい部活動ではあったが,それなりに充実感を覚える毎日の練習であり,部生活であった。

昭和35年度主将佐藤

佐藤,佐竹の老練コンビに加え,豊場選手のあと,二年生中心のメンバーに一年生宮永を起用し,豪快なスマッシュと力のバドミントンを見せてくれたが,技術的には,立教の完成されたものに及ばず,春のリーグで法政についで…三位,秋のリーグでは,立,明,法についで四位に終った。個人戦では,上位合わせて立教勢が占め、東西対抗に中村,山田が出場するだけではあったが,練習場が日吉記念体育館に移ったため,譲備も整い,練習量も豊富になり,層の厚さも増した。

 

昭和36年度主将高井

女子は,レギュラーの卒業後,中村,,隅田二名を残すだけとなったため,秋には二部に下がった

が,男子は,四年松田,三年中村,山圧,,蒔田,臼井,二年宮永,行形,石神,一年田中,鈴木のレギュラーは,立教の黄金時代を思わゼる豊富な人材を得,着々とその実を結びつつあった。又練習量の増加から,各年代に多くの一般部員が入り,部の牽引者として又レギュラーを勇気づけ,心の支えとして部のまとめに活躍し,練習時間を何回にも分ける程の大世帯に成長した。成果が,八月横浜で行なわれた全日本大会に,中村,山田組が個人戦初優勝を飾り,11月大阪で行なわれた第10回全日本大学選手権大会には,団体て,久方振りの優勝を得る事が出来た。春,秋のリーグ戦でも,立,法には勝てず四位,三位に終{ていたが,焦点を全日本にしぼり,練習を重ねた成果に,選手の意気が結晶し,得た勝利は,諸先輩が築きあげた基礎をもとに伝継された塾のバドミントン部全体の一致団結した現われであると思う。

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鈴木明

(39年卒)

30周年記念の文を書けと言われた時,初めて頭に浮かんだ事は35年の秋,僕達が一年生の秋にインカレに優勝した事でした。

高井主将以下,中村,山田,蒔田,宮永と精鋭を揃え,準決勝で立教と対戦しました。この中で

も,中村さん対小宮さんのシングルスは忘れられない試合の一つです。この試合の間に小宮さんが何回もベンチの方を助けを求めるような顔をしてみました。それ程に,中村さんの調子が良く,小宮さんが苦境に追い込まれていました。この時の中村さんは正に完全に近いと思いました。そしてこのシングルスに勝ち,山田さんが板垣さんに勝って,法政との決勝へと進んだのです。今になってみても,決勝で法政に勝った事よりも,この立教に勝った事が強く残ります。このインカレの間,宿舎でも非常に雰囲気が良く,まとまりがあったと思います。優勝する時は,試合場だけでなく他の場所でも,こういうものだと良く憶い出されます。これも,高井さんの人柄のおかげだと思います。自分が主将になった時もよく手本にしようと思いました。

二年生の時一番思い出されるのは,春の藤沢の合宿で,中村さん以下四年生にみっちりしぼられた事でした。何しろ2対1で二時間半休みなしにしぼられ.た上,すぐに藤沢より江の島までランニング,海岸でうさぎとび等した後,又すぐ体育館までランニングというきびしい練習の連続でした。この合宿で,さすがの行形さんも,途中で電信柱につかまって動けなくなるし今ではタフな?井上クンも海岸で駄目になる程でした。このつらい思い出は後々になっても,やれぱできるのだという気持ちを植えつけられました。

三年生の時,札幌の東日本において,七位にランクされたのが自分として,シングルスにおいての最高だと思います。その後,全日本綜含こおいてダブルス五位にランクされた事はありますが,自分としては,個人戦というのは何か良い成績が取れませんでした。何故かわかりませんが,団体戦に比してファイトがわかなかったのかもしれません。

団体戦の時は,自分自身の成績よりも慶応の成績を良くしようと努力していたように思われます。これにしても,下級生の時は何が何んだかわからなく,なんとかしようと思い始めたのは結局三年生になってからの様に思います。責任惑の違いというものでしようか。

この年に宮永さんが東日本に優勝し,関東学生,全日本学生,全日本綜合とシングルスの全タイトルを取りました。大先輩の広田さん,岡さん,吉原さん以後,長く慶応の王座は失なわれていましたが,宮永さんにより回復しました。

四年生の時のリーグ戦は自分にとっても忘れられないものの一つです。というのはリーグ戦全試合を通じ,メンバー及びオーダーを変えなかったのです。野球のようにお前は一番,お前は二番と不動にしたのです。この目的は,選手一人一人に,自分の立場というものを良く理解してもらいたかったのです。これができたのも,選手一人一人の力が接近していたからできたのだと思います。相手としては,いつ変えて出てくるのたろうかと思った事でしようが,結果的にはこれが裏をかいたのかもしれません。

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この結果,春には三校同率で四位になったものの,秋には立教をリーグ戦で何隼か振りに破り,二位となりました。この秋のインカレにおいて優勝する意気込みで向いましたが立教の東条のうまさに敗れ,結局三位に終りました。又シングルスでは長谷川が三位に,ダブルスでは轟,山本組が二位になりましたが一つもタイトルが取れませんでした。このインカレの最後のダブルス轟,,山本対伊村,中村の試合が終りに近づき,自分の主将としての最後の使命,又自分の四年間の全ての公式試合が終ろうとする時,一人ベンチを離れ,体育館の隅から,轟,山本組の試合を見ていましたが,結局これも敗れ「ああ,とうとう自分の主将の時は一つもタイトルが取れなかったのだ」と思うと不覚にも涙が出そうになりました。この気持がその後コーチを長くやらせる原因の一くになったのかもしれません。

バドミントン部に四年間籍を置き続けられた事は自分にとって大きな宝でした。又自分を助けてくれた,田中,井上,海野,平林の大きな力があったからこそ,まがりなりにも自分がここ.まで出来たのだと今でも感謝しています。そして、慶応義塾体育会バドミントン部の為には何をおいても協力しなければとつくづく思うのです。

 

大嶋俊次

(43年卒)

 

昭和39年4月慶応義塾大学に入学した私は同時にバドミントン部に入部していました。当時塾のバドミントン部は,関東リーグで優勝を争う一角として,各校から注目されていました。長谷川主将を始めとして,香西,轟,本山,木目さん等下級生の頃から選手として活躍された方達が四年生となり,そのプレーに円熟味を増し,それに三年生の山本さんを加えた強力なメンバーは入学したれての私には大変な迫力でした。ちようどその年,岡さんの後を継いで吉田さんが新しい監督に就かれました。吉田監督は大そう熱心で,練習場へもたびたび姿を見せられ,塾は優勝へ向って驚進していました。そんな中へいきなり飛び込んだ私は,一瞬驚いてしまいました。そして同時に大学の部はやはり凄いなあと感心してしまいました。しかしながら残念なことに春のリーグ戦は優勝を逸ました。そして秋もまた敗れました。四年生と言ういわば老練なプレーが若い力に破れたのでした。そしてその秋の早慶戦に,思いもよらなかった事が現実となってしまったのでした。リーグ戦で優勝こそ逸したものの,早稲田に敗れるとは当時一年生だった私は考えてもいませんでした。恐らく四年生も考えてなかったと思います。ましてその年,早稲田の主将の吉良さんは手首をこわして試合心.二出られなかったのですから。その年を境として,早慶の優位はがらりと替ってしまい,その後現在迄早稲田が連勝記録を延ばしつづけています。今から考えると,昭和39年は塾のバドミントン史上重要な年となってしまいました。

翌年,塾は絶体絶命の窮地へと追いやられました。レギュラー六人の内から五人の四年生を送り出した後に大きな穴があいてしまったのです。他校との実力には大きな開きがありました。残った私達には,ただただ練習する外どうしようもありませんでした。宮永,鈴木,田中,井上の各先輩をコーチに迎え,練習そして練習の毎日でした。例え敗れても己に納得が出来る様練習をするしか

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方法がなかったのです。今思うに,私達も頑張りましたが,.た輩の皆さん方が会社の合間を縫ってよくあれまで颪倒を見ていただけたと尊敬すると共に,この紙上をもって御礼を申し上げます。結果の方はと申しますと,春孝リーグ戦で二部転落と云う最悪の状態となってしまいました。そんな時その年から白石先生に替って部長になられた平先生は「勝負は勝たなくてはいけない。敗戦を重ねることは,敗戦の悔辱に慣れることにつながる」い言うことを話され,「ともかく勝て」と大変厳しく激励されました。夏の合宿には私達もコーチの方々必必死の思いでした。しかし結局その年の秋は二部で優勝こそしましたが一部に戻ることは出来ませんでした。わずか全日本学生でベスト八位と言う結果に過去の塾の姿を留めたにすぎませんでし大。昭和40年の納会は私達にとって大変悲しいそして悔やしい思い出を残して終ったものでした。この年は又一年生が大量にやめていった年でもありました。この一年間の厳しい練習についてゆけ右かったのでしようか。一時は50名からいた部員が20名足らずになってしまったのでした。このことは試合に敗れたことと同様に私達に打撃でした。しかしこの様な現象は慶応の体育会のあらゆる部に共通したものでした。当世学生気質とでも申しましようか,学生の考え方が昔と大きく変ってきたのでした。

一部復帰の為にはどんな練習をしていったらよいか,…少なくなった部員を増やすにはどうしたらよいか等々多くの間題をかかえて,私達は4!年春のスタートをしました。この年,吉田さんが一番苦労された年ではなかったかと思います。特に現役と監督,コーチ等の衝突は従来の封建的な体育会の部のあり方に大きな疑問を投げかけたものでもありまし.た。その年を終えて記録的には見るべきものはなく,ましても一部へは戻れませんでした。しかし.昔日の力はないにしても,選手層に厚みを増して来たことは大きなプラスでした。

昭和42年4月,一年の時からの六人二年から一人を加えた私達七人の仲間は全員揃って最上級生

になっていました。私達にあの入部したての頃に見た四年生の様な貫禄が備わっているのだろうかと心配し,正直言って一年生から一足飛びに四年生になってしまった様な戸惑いがあったものでした。春のリーグ戦では青山学院に涙をのんだ私達は,秋に私達四年生にとって最後のチャンスに一部復帰の願いを託しました。幸い三年の西沖,二年の佐藤,平井と着実に力を延ばしてきていました。秋のリーグ戦で先ず第一段階の優勝を勝ちとり,関東学院との入替戦へと向いました。塾は真向から相手校とぶっかり全く互角の戦しでした。しかし敗れました。一部の厚く大きな壁が私達の前に立ちはだかって,冷たく重くのしかかっていました。一年の時の一部での試合を再び取り戻そうと一部復帰を願い続けた三年間,つしにその願いを叶えることは出来ずに終りました。そして四年間を振り返ってみて,バドミントン以外に何もない自分の学生生活にある種の疑問を感じながら,卒業していった私ではありました力,今考えてみると,本当に實重な体験であり,私の人生に大きなブラスであったと確信すること力出来ます。しかも私が塾30年の歴史の中で,最も苦しい時代に現役時代をすごしたこと(少なくとも私はそう思っているのですが)が,今の私にはとても幸せであった様に思えるのです。順風で進んでいた船が突然嵐に遇い,帆を折られ梶をもがれながら必死でその進路をはずさいな様努力して来た様に思います。そして今もまだその疵痕は大きく残り,昔日の雄姿をを見ることは出来ません。しかし慶応義塾体育会バドミントン部が永く続く限り,やがて再びその雄姿を示す時があることと信じています。

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中村一久男

(46年卒)

39年の秋期リーグ戦の4位を契機に2部に転落した我部にとって,1部復帰は最大の目標となった。かっての我が部を知る人にとっては隔世の感もあろうが,2部慶応は現実であり,しかも早慶定期戦においては時をいつにして,40年以降は連敗の憂目を負っていた。一方1部校においては,中大,法大が交互に優勝を分ちあうような形で,それに新らしい勢力たる日大,早大が割り込まんとしていた。このような状況は43年度入って我が部にとって若干の好転を見た。すなわち春季リーグ戦は3位にあまんじたが,秋季リーグ戦において待望の1部復帰を実現させ,また全日本学生選手権でも第5位を占めた。ただ早慶定期戦においては依然として連敗を続けたが,8シーズンぶりの1部復帰部に大きな喜びと自信を興えた。これらの試合を通じての西沖主将,山本,佐藤,平井,佐々木選手らの活躍は見事なものであった。

しかしながら44年度から45年にかけての戦績は非常に厳しいものとなった。44年度春季リーグ戦は,久しぷり1の1部校としての戦いであったが最不位,入替戦においても宿敵関東学院に破れ,わずかシーズンで2部に転落するはめになった。秋季リーグ戦に対する佐藤主将を先頭とする再度の挑戦も同率3位に終り,早慶戦においてはまたもや大敗を契すことになった。この反面東日本選手権において,佐藤,平井選手のダブルス3位に健斗した事は,部員にやれぱできるという自信を与えるものであった。

このような状況で向えた45年度であるが,主将福島を始めとする懸命な努力にもかかわらず,春しかも早慶戦においては全敗という,定期戦始まって以来の季リーグ戦3位,秋季リーグ戦2位,不名誉な記録をたててしまった。

 一方女子においては,部員の絶対不足という悪条件の中において,着々とその実力を貯わえ,43年度春季リーグ戦3部3位,秋季リーグ戦2位,さらに早慶戦においても勝利を得た。また関東学生選手権ではBブロックながら,北島,五味組が準優勝になるなど好成績を上げた。,44年度に入り春季リーグ戦において2位ながら入替戦,早稲田棄権のため等もあり,2部に昇格した。この勢いに乗って早慶戦では五味,三原,富田選手らの活躍で,全勝を上げた。しかしながら秋季リーグ戦は2部校の中にあって5位に終った。翌45年度は,レギュラー3人が卒業したにもかかわらず春季リーグ戦こそ5位に位置したが秋季リーグ戦においては3位に上がり,早慶戦でも完勝した。これらの成績は,川崎選手を始めとす今井,小池,田村らの力に負うものであった。

このように,43年から45年にかけての戦績を見てゆくと,一概には言えないにしても,かんばしくない成績であった。そしてその原因の所在を求めていくに,まず考えられるのが部員数の減少であり,最高時においても男子20名程度であり,入試難の折,有望な新人が入りにくく,その反面大学に入って始めてラケットを握るような部員を育てなければならぬ状況であった。一方早大,日大,日体大らは,めきめき実力を上げ,その豊富な部員数は内部での激烈な競争を生み,我が部との実力差を歴然とさせていった。

また考え方においても,一般部員の増加,2部であるという現実に密接な関連を持ちながら体育

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会が心身の鍛錬と人間形成の場であるなら,戦績を重視し勝敗に固執するより,スポーツを趣味として楽しむ中に体育会本来の目的を実現しようとする戦後世代的な考え方が現われてきている。そのような考え方は,きびしい練習と規律を要求される体育会の部員数の減少,一方同好会の急増という現象に集中的に現われ,それは,慶応義塾体育会だけでなく,大学スポーツ全体の現象になっていた。このような状況の中で,43~45年にかけての部の在り方は,練習量の減少と全体的意思の尊重の方向に向かっていた。そしてこの方向は,同時に部員一人一人がきびしい練習の中に体育会の意味を考え,スポーツと人生の,意義を考え,悩まねぱならぬ責任と義務を負うのであり,その中の苦しみから真の陸の王者たる慶応バドミントン部を再生させるものと確信する。

 

片石千鶴子

(33年卒)

卒業をしてから今年で十四年,いつのまにかたってしまった。私が,バドミントンのラケットを手にしたのは,凡そ二十年前で,女子高バドミントン部創立は,28年の秋であった。当時,夫々のスポーツを愛好していた者数人が,バドミントンの面白さに気付き,何とか運動部として認めて欲しいと思って,東奔西走し,やっと許可がおりた。その時大変に御尽力下さったのが,故奥井塾長,そして兵藤先生であった。当時部員は,20名程あったが,何よりも苦労したのは,練習場の獲得であった。何しろ幼雅舎の体育館を,大学,男子高,女子高の三つで時間を分けあっていたのだった。女子高初の合宿は,赤倉山荘で行なったが,コート迄が大変に遠くて練習内容よりは歩くのが大変であったという事が印象にある。そして初試合は親善試合として九段高校と行なったがどの様な内容に終ったかは全く記憶に残っていない。

高校時代は殆んど遊びで本格的に始めたのは,やはり大学に入ってからである。春のトレーニングより参加したのであるが元住吉迄のランニングが辛くて落伍しそうにある事が度々あったが,最後尾にはかならず徳用マネージャーがついていて,絶対に休ませてはくれなかった。明日はもう休みたいと思いながらも当日になるとすっかり忘れて?トレーニングに出て来ていた。初公式戦で印象深いのは京都のインカレである。その時のメンバーは,一年気輩で昨年亡くなられた有山さん,同輩の上杉さん,牧さんと私の四人であった。試合内容はさっぱりわからず無我夢中で気持の落着いた時にはもう終っていた。結果は参加校もまだ少ないせいも麦ってか準決勝で終った。当時部では初の女子部員であったので相当なお荷物であった様である。何故ならば,夜の試合で時間が永びくとかならずマネージャーに遅延証明なるものを書いてもらっていたからである。昨今の若い人達には想像もつかぬであろうが当時は女子が,夜遅くに帰宅するという事に対して各家庭では大変にきびしかったのである。年がたつにつれてバドミントンの真の面白さがわって来たのであるが,実際にそれをわからせてく.れた人の一人として立大OBである故有馬さんは忘れられない人である。

三年の東西対抗の合同練習に参加して上杉さんと二人彼の教え得たのであるが実に懇切丁寧に指導して呉れたのであった。それ以後というもの益々面白さが倍力して一層病みつきになった。練習

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場は,神奈川体育館,幼稚舎,立大女子との合同で練習に参加させて貰ったり,まるでジプシーの様に転々としていたが,皆練習開始時刻よりは少しでも早く行って練習をしたものである。休んでいる人があれば男女の区別なく挑戦を申し出て気狂いの様に寸分の時間も惜しんで練習をしたものであった。四年間の想い出を記して見ると,

①京都でのインカレ

②北海道インカレに出場できず口惜しくて夏休み中毎日練習に出て来た事

③リーグ戦での優勝

④浅間合宿:で門限に遅れた罰として,男子部全員の馬跳びと体育館掃除をやらされた事(吹野監

督が同じ喫茶店にいた為門限にはまにあうと思っていた。)

学生の本分は勉強をすることであるが,我々は一にバド,二にバド,全てバド,バドの生活であった,が,今振り返って見ると体育会生活を送ったという事に対して大いに満足している。それこそ『私は慶応義塾大学体育会バドミントン部卒である!!』(学部卒でなく)と胸を張って答える事に大変な誇りを持っているからである。最後に女子部員の為に御力添え下さった先輩方にここで御礼申し上げたいと思います。有難う御座居ました。

 

土田佳子

(35年卒)

慶応義塾体育会バドミントン部創立30周年誠々こおめでとうございます。『十年ひとむかし』と言う言葉によれぱ,私とバドミントン部とのおつき合いは,昭和28年,当時女子高校一年の春,即ち今から約『ふたむかし』前から始まりました。以来大学卒業迄の七年問シヤトルコックを追い続けたわけで,私の学生生活は,バドミントンと切りはなしては考えられない程その大部分を占めていたと言える程だと思います。

女子高校時代の部活動は,今想い出せば大学のそれとは比較にならない程,気楽な部生活でした。その為,共に入部した仲間が簡単な理由をこじつけて次々と減り,心細い思いをしたものです。2時40分に授業が終り,他の部はすぐ活動にとりかかっているというのに,我々は4時30分から,天現寺の幼椎舎体育館で始まるのですから,その間2時間の暇つぶしには苦労をしたもので,体育館のなかった悩みは,深刻だった事ばかり強く心に残っています。

大学になってからは,この三年間の心の成長の成果があらわれ青春の全エネルギーを練習に,試合にと注ぎ込んで女子部員一同,一丸となってファイトに溢れる部生活を過す事が出来たと思います。

二月初旬,試験が終るとすぐに始まるトレーニング,グランドの芝を一杯セーターにつけて,まむし谷を駈けあがるあの辛い瞬間。ホワーンとい春の久里浜合宿での磯の香。夏の信州浅間温泉の合宿で午後の厳しい練習から解放されて,汗まみれのポロシャツの背に快よい涼風を感じ乍ら田舎道を戻るあのほっとする一瞬。---今想い出してもきりがない程の数多くの事柄---。そんな中から,私達はともすれば無為に過してしまう学生乞時代に最も大切な何かを,幾多の良き友と共に得

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られた事に,喜びと誇りとを感じる事が出来るのです。

部生活七年間を通して培われた何かは,一本の細い流れの様に私の心の中に続いているもの,私の胸の中に鮮明に定着したもの,一それは,協力の精神であり忍耐の力と言えると思います。

慶応義塾体育会バドミントン部の今後の発展の栄光を心よりお祈り致します。

 

広本鮎子、伊丹桂子

(45年卒)

 

 41年女子入部者は5名,うち3名は初心者で小池コーチのもとで一年間全員続けた。人数は三,四年はいなく,二年が二名,一年が五名である。しかし試合のできるメンバーはぎりぎりで,春季リーグ戦を迎えた。成績は四部二位を確保し,早慶戦めざして,夏の合宿が富山で行なわれ,それに先立って炎天下でのグランド!0周,並木でのウサギ跳びやダッシュ,まむし等,今なお忘れられない苦しいトレーニングでした。十日間の合宿では,レギュラーの集中猛練習と並行して,初心者も何とか試合らしい形ができる状態となった。長い十日間であったが夜の練習に備えてのおにぎり作り等,数多くの思い出があり,女子としてのまとまりもこの時にできた。

早慶戦は,当時二部の早稲田と好試合を展開したが惜しくも破れ,通算塾の三勝八敗となった。しかし夏の合宿の成果は秋季リーグ戦にあらわれ,優勝し,入替単乏では三対二で成城を破り,三部昇格した。この年はクラブ内での女子の存在が定着した年であったと思う。しかし春の合宿では二名がクフブを去りトレーニンク,合宿とも三,四名という淋しい時代になってしまいました。

 42年4月,新入生勧誘の努力も空しく,長続きする人を得られず,小人数の為,大嶋コーチの下で三部維持を目標に試合の為の練習が行なわれた。ダブルスの動きが理屈ではわかっていても思う様に足が動かず,よく叱られたのもこの頃である。夏の大垣合宿では,宿舎まで,30分以上もかかって走り,練習が終るのは恐怖でした。それでもどうやら一年間,最下位はまぬがれ三部五位を維持できたのである。早慶戦は三対二で久しぶりに勝ちその年よりできた杯を手にすることができた。

 43年やっと三人の新入生を得,八名で春のリーグに臨み,三部三位に進出,又関東学生のBブロックでは,決勝進出も果した。合宿史上最高ではないかと思われる程食事のおいしかった野田合宿を経て,秋の早慶戦にも連勝しリ一グでは二位となり,新人戦ではBブロックで,団体,個人共,決勝まで勝ち残った。

 44年には四年生が三人となり,コーチに頼らず女子の力での活動をはじめた。春季リーグ戦では三部二位であったが,二部が五校て…あった上,早大が入替戦棄権の為,難なく二部入りを果してしまった。遠く釜石で夏の合宿が行なわれ,岩手県の国体代表で女子No.1といわれる人を相手に,練習後上級生が交替で残り,夜遅くまで練習に励んだ。そのかいあってか早慶戦には楽勝,秋のリ一グ戦ではどうやら五位にくい込むにとが出来た。

この四年間,一歩も後退することなく,上へ上へと進んで来ました。はじめは試合もやっとの人数だったのが,三年後には,いつのまにか,層が厚いといわれるクラブに発展していたのである。

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これは,かなり運の良かったということもあるけれど,部員一人一人はばらばらでありながら,ふしぎなまとまりを持っていたからだと思う。新入生が入ってはやめて行ったけれど,それだけに最後に残るのは,やはりバドミントンが好きな人ばかりで,それぞれのやり方でクラブを大切にしていたからだと思う。この奇妙なまとまりは未だに尾をひいていて,私達45年卒の連中は,卒業後も年に一,二回なんとなく集まっています。集まってくるたびに思うのは,一年の頃,コーチがクラブとしてまとまっていく為に男子,女子ミーティングを重ねるように言われ,ミーティングとして集まると白けて,座が持たず,どこかへ遊びに行こうとかいう時には,どういう訳かいつも全員集まったことです。

 

私とバドミントン

兵藤昌彦

学生時代運動選手をしていた者が社会人となり急に運動を止めることは,健康のためによくないといわれるし又,私自身もそう考えましたので,住まいが鵠沼にあった関係で昭和10年春,たまたま横浜YMCAで会員募集中でありましたので入会,体育部に籍を置き,1934年(昭和9年)第11回オリンピックベルリン大会を見に行かれた後,デンマーク,オレロップ国民高等体操学校で体操とバドミントンを学ぱれ帰朝された広田兼敏体育主事指導のデンマーク基本体操のクラスで,体操とバドミントン,バレーボールをやっておりました。(週火金の18時~19時の一時間)

数年間この状態が続いておりましたが,そのうち数人の者がこの遊びのバドミントンから専門的にやろうではないかと,話がもちあがり,クラスが出来,体操クラスの後の1時間がその時間にあてられました。昭和15年4月大阪から山本孝二,北海道から佐藤保の両君が塾に不学,横浜YMCAのアパートに入居して来ました。友人から「私の親籍の者(山本孝二)が塾に入学し,YMのアパートに居るからよろしく」と依頼を受けましたので受付で山本君を呼んでいただき,「学生時代に何か運動して,良い想い出を」と話し,YMでやっているバドミントンをやっては如何と勧誘いたしました。そののち,同じアパートに新入生の塾生がおるのでその人を誘ってきました。その人が佐藤保君でした。そのころは単にゲームをして楽しんでおりました。コートが一画しかとれない狭い体育館でしたので,同好の入が沢山集まり,一ゲームだけしか出来ないことが度々ありましたので,次のクラスの時間が待ち遠しく感じられました。

塾員でプレイしたのは小生が囎矢で又,塾生として最初にプレイしたのは山本孝二,佐藤保両君であります。

そののち,同君の友人が集って参りました。昭和16年と17年の夏には横浜YMCAのバドミント

ンクラブは大阪,神戸の両YMCAとの交歓試合のため遠征。楽しい想い出が沢山あります。芦屋

の山本君の家に招待を受けて過したひととき,又神戸では歯科医がプレィ中に「急患が来たからすぐ戻るように」と御使いがみえましたが,rすぐ帰るから応急処置をしておけ」といってプレイを続行した想い出もその一つです。

暑くて寝られないのでYMCAの屋上に上がって神戸港を見おろしたところ造船所のドックから

半ば以上はみ出して造船中の大きな姿がみえました。それは航空母艦「鳳凰」であると聞かされました。

神戸YMCAの石渡俊一主事,大阪YMCAの松葉徳三郎主事の両氏は横浜YMCAの広田兼敏主事が始めるように勧められて,本格的に始めるようになりました。

その結果,前記の夏期に,交歓ゲームが行なわれました。その後,東京YMCA安村主事に始めるようにと話が持ちこまれて,始めるようになりました。

当時,これらのYMCAではバドミントシを知らないわけではありませんでしたが,極く僅かのメンバーが遊び程度にラケットが振られていたにすぎませんでした。

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前記の神戸,大阪とのゲームに加えて,東京とも試合が行なわれ,ついに春秋二回の定期戦にまにか立ち消えてしまいました。

これらの試合の他に横浜の外人クラブYCACとも度々試合が行なわれました関係で,平常のク,レシーブの仕方,あるいは,フォーメイションについての研究がもたれました。その一つに山本孝二君は高い位置でシァトルを受けるためにジャンプすることを考え出しました。

昭和16年12年8日YCACとYMCAと試合が行なわれることになっていましたが,朝のラジオニュースは「今未明太平洋に於て戦斗に入れり」と報ぜられ,試合は中止になりました。

しかし、YMCAでの体育部の活動は続けられておりました。この頃山本,佐藤両君が中心になった学校でのクラブ活動を始めていました。(註体育会誌復刊二号に昭和17年10月東京YMCAにクラブ(KBC)が結成されておりこれが部の母体です。)

学校の先生方に理解していただこうと,恩師の奥井復太郎,藤林敬三,寺尾琢磨の諸先生をお誘いして,体育会本部前の旧幼稚舎の玄関前の広場と,体育館本部への坂道の降り口の手前,先生のブの庭の芝生の所で臨時のライン布テープをひいて,持参のラケット,シャトルで大変楽しい時を過しました。勿論山本君初め同好の学生諸君も一緒でした。これが縁で寺尾琢磨先生が初代の部長,後日誕生した関東学生バドミントン連盟の初代会長に就任されました。

昭和18年8月に応召,終戦の翌年21年10月病んで帰宅いたしました。病院に入院しておりました8月に広田兼敏主事が訪ねてこられバドミントン協会を創る相談をうけ,9月に病院を抜け出

して東京で広田兼敏,宮沢宏之,藤井光男の諸君と種々相談いたしました。又,都内は戦の痛手が未だ残っていました。昭和23年戦時中休態の状態の部を再建した六角勉君の呼びかけで,立教,法政,明治の各大学のバドミントンクラブの代表者が進駐軍によって接収されて富士見町(当時麹町区、現千代田区)の仮住いの東京YMCAに集り,大学の連盟作りの話が進められました。横浜YMCA広田兼敏体育会主事と私がオブザーバーとして同席しました。会が成立,四大学リーグ戦が行われるようになりました。今日の全国大学バドミントン連盟の基盤がこの時出来たわげであります。

塾のクラブもそのころは練習コートを探すのに大変苦労いたし,転々と場所を探して歩いたものでした。

昭和27年4月から体育会への加入が許されました。加入後も定められたコートはなく相変わらず転々と練習場を変えておりました。その中で最も多く使われたのは天現寺の幼稚舎の体育館で、ここは子供の体育館のためコートニ面とるのがやっとの広さしかありません。部員は現在の倍以上(男子のみ)一年生だけでも20名前後おりました。二面のコートに8. 八入ると,他のものは入ることが出来なかったので,幼稚舎の運動場を男女一緒になって,ランニング,体操でコートに入れるまでトレーニングの連続。一日に一回コートに入れればよい日もありました。長くコートに入るためには,相手に勝たなければならないのでそれはそれは真剣でした。熱意、気魄は凄いもので今日とは雲泥の相違です。このような部員の意気ごみが10年間近くバドミントン界の王座を占めることが出来たものと確信してやみません。又,体育会の先輩,現役の諸君もバドミントンは慶応の

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ものときめておりました。

昭和33年11月に,塾創立百年記念事業として日吉記念館が出来る折り,体育館がないので体育会として使えるよう考慮して欲しい旨を学校当局に申しいれたところ聞き入れられて今日のものが出来上ったわけであります。

バドミントンコートは現在と同じく記念館の中央でしたが,向きが東西のガラス壁に面しておりますので,(ステージと平行)プレーヤはいつも明るいガラス面に向いて,白いシヤトル を追わなければならなかったので,光りが目に入り頗るやりにくかったあの時のつらさは今も忘れることができません。

昭和25年夏から体育実技としてバドミントンが行なわれるようになりました。当時は三田の21番教室,幼稚舎の体育館,神奈川体育館(横浜市神奈川区反町,現在の神奈川アイススケート場の前身)と転々と場所を変えて,朝から夕方まで,三班に分かれて授業が行なわれましたが, 記念館落成と共に日吉になりました。部の練習場も時を同じくして日吉になりました。

記念館でバドミントンの授業を毎年行なうたびにコートの向きが不適当なので再三体育会照井伊豆主事に変更して欲しい旨を申し入れるがいつも「お前達バドミントンの先輩の希望で決めたことで今になって何を言うのだ」と聞きいれて貰えませんでした。(その都度,コートは如何なる向き

にすべきかを知らないOBの無責任な発言を嘆いたものでした。)

それなら,ガラス壁にカーテンをしてくれるよう頼みました所,見積りをとりましたら,面積が広いため高額となりましたので考え直してくれ今日のようにステージと直角になりま した。この間三年かかりました。

 バスケット部が記念館での練習場を持つ部の中で最初に優勝した折,先年物故されました石丸重治体育会理事から「練習場が出来たのだから優勝しなければだめだ」といわれました。この事を部員諸君にも伝えました。その甲斐があって優勝いたしました。又,中村智,山田善康組が日本一にもなりました。このころまでが部の全盛時代のように思われます。その後,名選手も出ておりますが。

昭和29年,日本のバドミントンチームが第三回トーマス杯,アジアゾーンに初出場のときの(これが海外遠征の最初)主将が岡道明君,その後越川啓,宮永武司君らが日本の代表チームのメンバーとして数回海外遠征しております。初の女子部員は有山さん(途中で退部されましたので部の名簿にのっておりませんが)でしたが昨年(46年)病死されました。

上杉佳子(旧姓高橋,愛称クロチャン)片石干鶴子(旧姓佐藤,愛称タヌキ)さん等の時代が女子の全盛で四国高松でのインカレの時,京女との決勝戦で接戦の末破れ二位はなりまし たが,同じ会場にいた男子選手の応援があったら優勝したのではないかと残念に思います。もっとも,男子とてもその日の試合が大変でしたので余裕がなかったのでしょう。

一時,女子部員が減り水野美奈子壌(ギリシャ留学中)一人になったこともありました。 大勢の男子部員の中の只一人の女子部員,黙々として卒業まで練習を続けました。私が最も敬服する部員の一人であります。絶えることなく今日,女子の部のあることは同嬢の賜であります。

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戦後のことについては,他の諸君が,早慶定期戦等々,執筆されているものと考え省略いたしました。

部の最初の十年問のあゆみについては体育会誌復刊二号バドミントン部のところに森有甫監督が書いておりますからそれを見られるとよいと思います。本塾の図書館にありますから。

私が日本選手権(ダブルス,パートナー広田兼敏と三回,東芳男と一回)を四回獲得できましのも当時の部員諸君のおかげと感謝いたしております。

最後に,

現部員諸兄よ,

全盛時代の先輩諸氏の苦労話を直接聞きなさい。

余りにも現在は恵まれ過ぎているため,気迫が欠けていますし,部員数が少ないため過保護になっているきらいがある。上級生と下級生との間の礼儀が失しなわれているように見受けられる節があるように思われる。

"親しきなかにも礼儀あり"

 

想い出

前監督吉田格麿

(32年卒)

今から10年前当部20周年の式典があってから早くもついに30周年を迎えることになり,当部OBとして感激である。この間38年から44年の7年間監督としていろいろな事があった。そこで新入部員の頃から順を追って思い出を書く事にする。当時は天現寺にある幼稚舎の体育館を使用していた。コートは2面しかなく,レギュラーが独占していたので我々新入部員はグランド上で毎日毎日ランニングばかり,ラケットを握る事はほとんどなかった。しかも週に1回ぐらいコートに入れても30~40人ぐらいの部員数では一寸で終ってしまう。これには参った。だが我々にとって最初の合宿が仙台の東北大学体育館で行なわれた。コートは8面あり練習には最高の場所であったが毎日毎日こんどはコートでシボリにシボラれた。その上ランニングするには最適の場所が校内にたくさんあった。初日は満員だったコートもだんだんあきができ,我々はこっそり外へすずんでいるとみつかって,天現寺で練習が出来ずブッブツ言っていたのだから十分練習をさせてやるとの先輩のこころずかいは本当につらかった。我々悪童は(私以下岡本,小西,楠,貴志等そうそうたるメンバーであった)当時のキャプテン朝倉さんは練習でシボレばいたずらはしないと思っていた。しかしそれはあまかった。食事がすむと元気回復,それからが大変。外へ飲みに行って門限が過ぎても帰つてこないもの,合宿所の玄関が開かず電柱から登って来るものそれはそれは大変だった。しかしいくら遊んでも練習はよくやった。シボられても又昼と同様夜もガンバッタ。そして2年生となった29年監督が吹野先輩にかわり岡キャプテンのもとに春秋リーグ戦に優勝した。これは現役時代一番うれかった出来事であった。特に秋のリーグ戦の対立教との試合で当時シングルNo.1の望月を新人越川がストレートでくだし優勝した。岡さんと羽田さん(現徳用先輩)が国民体育館のコート上でだきあっていたのが印象的であった。その年のインカレはダブルスを2つとったがシング ルは3つとられ用意していた祝勝会もムダになった。宿舎に帰ってもだれ一人として食事に手をつけないのを今でも思い出される。それ以来吹野先輩と無念をはらす祝勝会の延長をやっている。

卒業後中村(現カネボウ)山田,蒔田,宮永のメンバーでインカレに優勝し,赤坂でOB,現役で大祝勝会をやり大いに飲んだ事もあったが,一番印象に残っているのは何回かの入替戦である。

その中でも42年秋の入替戦で関東学院に惜敗した時羽田さんと岡本がスタンドであちこち場所を変えたり,タバコをつけたりけしたりして応援してくれた。試合後羽田さんから「いい試合だった,チャンスはまだまだあるヨ」と言われた時,私は涙を流してしまった。そして翌43年当時のコーチ鈴木,田中,井上の3君が本当によく部員いや監督の私までも引張って入替戦に関東学院を破り一部昇格した時である。

トップの佐藤が成田に勝ち,西沖は善戦したが落合に負けた。一時は不安であったか, その前にあったリーグの対青学の時も2-4だったスコアをもりかえした経験にものをいわしジリジリど慶応ぺ一スにしてポイントを上げていった。中でも福島,宮崎のダブルスでマッチポイントを握りながら福島のカラぷりがあったり,佐々木が何本も何本もサーブをミスしたり,イライラ した事が思い

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い出される。この試合にはコーチの鈴木だけがその場にいた,田中,井上は社用(田中は出張中だと思う)で見る事が出来なかった,平部長は外国へ出張中であった。常に苦労を共にしたメンバーが観戦できなかったのは大変残念であったが,あの時は本当に勝ったという気持がした。翌日は朝からOBの皆さんより電報やら電話で御祝をいわれ,涙をながした事は昨日の様に思い出される。ただ残念な事は私が監督として1回も早慶定期戦に優勝する事が出来なかった。しかし昨年の早慶戦を見て,毎日毎日練習によって部員に力がついてきた様に思えた。たのもしいかぎりである。

特に平部長の御努力は大変なものでおかげで,部員も増加し近年にない充実ぶりである。宮永監督も私の後任として大変苦労しているが,必ず一部にかえり咲いて優勝するチャンスがある。幸い最近の部員にに豪傑がたくさんいるのでたのもしく思っている。どうか敗れても敗れても雑草の様に強い精神力てはいあがってほしい。そして優勝の暁には平部長以下全員で大祝勝会をしたいと思う。我々もできる限りの応援をする。この30周年には早慶定期戦を第一目標におきガンバッテほしい。9月の第二週をたのしみに今から体力をやしなっておくつもりである。

 

創立30周年の節

主将 上野 利三

 

輝かしい30周年を迎えた我がバドミントン部、その根底には,部を創み育てていかれた 諸先輩の,汗と涙の結晶が今なお生きつづげている。

時代が遷り,それとともに内容も大きく変化をとげた。物質的にはすべてが豊富になったが,逆に精神的に甘くなっている。我々は諸先輩の寛容さに安堵してはならない。

我々は現在,過去の栄光への志向よりはむしろ現実直視をよぎなくされている。かって我が部が「陸の王者」として黄金時代を築きつつあったころ,その練習目的は首座の維持にあった。正に下位のものを「突き放す」ための練習であった。しかし,今我々のおかれている立場はどうであろう。それは「突き放されまい」として懸命に喰いついているといった状態である。そこには余裕の差が顕著である。その差は,基本的には人材の質,量の両面的な優劣の差に因るところが大きい。

 我々は今これを与えられたーーー昔に比へればわずかのーーー部員一人一人の士気と意欲に求める。全般的な部員の量的減小は否めないが,技術的な質的低下は喰止めねぱならない。

 今ほど個々の役割の重みを感じさせる時はないのである。そしてこれから以後も,ますますこの傾向は確実に増していくであろう。

30周年を一つの節として,有効性を持たせ,そこから芽を出すべく努力しよう。

 

丹羽修司君のこと

三上義直(35年卒)

この五日,丹羽修司君が年若くして逝ってしまった。

私にとって生涯の友と思っていた人を失い,半身になにか大きな穴をあけられたよう

な,堪らない淋しさを感じている。そして一方,未だに彼がこの世の人でなくなったとは思えず,今 にも声を掛けながら近よって来そうな気がしてならない。彼の遺影を思い浮かべては現実にかえ り,もう共に

ラケットを握ることも叶わぬと,悲しみを新たにしている次第である。

思い起せば,丹羽君と初めて会ったのは,普通部へ編入学した日,天現寺の自尊館で通路を隔てて,隣り合せた時であるから,20年以上前になろうか,真新らしいフライパン帽を被った小柄な彼の姿が目に浮かぶ。あの頃は野球とかラクビーに遊び興じたが,身体は小さかったが, 動きは敏捷で,特にボールさばきは上手であったように記憶している。

高校一年になって彼を誘ってバドミントン部に入部し,それ以来大学,OBを通じ,ダブルスのペアを組み続け,バド以外何をするにも一緒で,誠に性の合った良き相捧であった。合 宿も諏訪を初めとして10回以上も参加したろうか,楽しい思い出である。コートに入ったときの彼は,常に勝とうと言う意欲に溢れ,試合運びと攻めの巧さは,レギュラーにも引けを取らず,パワーがあればと惜しまれたものである。

ゲーム以外でも,彼は何事にも全力投入せねば気がすまず,仲間が集り何かをしようと した時は,例えそれが合宿の夜の蒲団蒸しであっても,夢中になって飛び込んでいった。あの頃の言葉で,ヒッチャキになってやると言うタイプであり,快活な明るい雰囲気とともに彼の魅 力であったと思われる。彼はあの頃と同じように,病の床にあってもこのヒッチャキな態度と,明るく振るまおうとする努力を最後の時まで持ちつづけていた。

あの直前に握った彼の意外に大きな手の感触は,永い歳月にわたる彼の思い出と共に,

私にとって一生忘れることの出来ないものとなるだろう。

安らかに眠られんことを祈るものである。