OB・OG会

創部30周年記念部誌

創立30周年に当って

部長平 良

義塾バドミントン部は本昭和47年をもって創立30年を迎えた。いうまでもなく,30年というのは大学バドミントン部として最古の歴史を意味する。また今から30年前の昭和17年は太平洋戦争の最もはげしかった時であり,それからの変遷を考え合わせるなら創立に,生い立ちにどれだけ苦労があったかということは容易に想像されることであろう。

すでに退職された寺尾先生,故人になられた奥井先生が戦中,戦後の混乱期に部の振興に心をくばられ,それをひきついだ白石先生が部長を退かれ,わたくしが部長をついでからでもすでに8年にわたろうとしている。この間,バドミントン部は長い間わが国のバドミントン界をリードし,バドミントン人口の拡大に大きな貢献をして来たと自負している。もっともこの数年間は必ずしも日本や大学バドミントンをリードして行くだけの戦力を欠いているが,バドミントンというスポーツの拡大がその人ロを拡大し,また日本全体としてはすでに世界をリードして行くだけの力を持つにいたっていることに義塾バドミントン部のともした灯がいささかでも役立つところがあったのではないかと一思っている。

わたくしがいうまでもなく,バドミントンは簡単なルールによって誰にでも出来るという長所がある。それが庭先や道路での遊戯として広く拡まっている理由でもある。またある種のスポーツと異って年齢に相応して出来るという利点を持っている。それと共に一歩進めるなら高度の技術を要請される複雑なスポーツでもあり,単に一匹狼であることを許さないチームワークを基礎にしたダブルスのプレイもあるといった,手軽であると同時にスポーツに期待される多くの要素を獲得できるものでもあろう。いささか自画自賛的とはいえ今後も部とバドミントンの振興に力を注ぎたいと思っている。

すでに述べたように,ここ数年間の戦績は必ずしも良いものではなかった。スポーツには「参加することに意味がある」といった一面があるが,同時にそれが口実になって厳しい鍛錬を避ける結果になりやすい。「参加するからには努力を」といったことがつけ加わる必要もあろう。30周年を穫会に努力が重ねられて慶応義塾バドミントン部が再び大学,日本,世界のバドミントン界をリードするにふさわしい部となるよう祈っている。

 

創立30年に際して

三田バドミントンクラブ会長

吹野家寿吉

慶応義塾に同好の集りとして発足して以来30年を迎え,月日の経つのは早いものとつくづく感ぜられます。その間多大の御援助,御指導を頂いた歴代の部長先生,体育会理事及び諸先輩に対して厚く御礼申し上げます。我部が現在あるのも,塾内関係の御援助と共に日本協会をはじめとし,各大学の並々ならぬ御協力の賜ものと深く感謝する次第であります。

30年の歴史の内には種々の想い出があり,その一つ一つが忘れえぬ場面として今でも鮮明に残って居ります。特に小生が監督として務めた昭和29年からの5年間は昨日の様に思い出されます。監督就任の時,三田の演説館に現役を集めて初めて抱負を語った時が大雪であったこと,就任の年に春秋のリーグ戦で優勝した感激,合宿前のトレーニングで現役と一緒に走ったこと,多摩川堤を往復した時の苦しかったことや33年の秋のリーグ戦初日に自ら坊主頭になったこと,その直後の四国のインターカレッヂで現役の坊主頭で高校生に間違えられたこと、その大会準決勝で最終戦セットオールで第3セット10-1とリードされてから逆転勝ちした事など思い出せば数かぎりなく昨日のようにはっきり思い出され非常に懐しく思い出されます。その5年間の短い体験でも全員で協力ー致してやれば必らず出来るという信念を得た事は,その後の小生の人生においても大いに役立っている事を今更ながら感謝している次第であります。現在の学生は昔と違うといわれますが,トレーニングの方法又は技術の吸収の方法には進んだ方法が取られるのは当然でありますが,人間何かをする場合如何にすべきかという点は変わりないと思います。

今後共,我部が隆盛になり,又バドミントン界をリードするを切に希望すると共に,永遠に発展

する事を願って止みません。

 

30周年にあたって

監督 宮永武司

まったくもって月日のたつのは早いもので,我バドミントン部も30周年を迎えることになりました。丁度10年前に私自身が現役四年生の時20周年記念であちこちとかけめぐった思い出もあり,なんとも言えない感激です。バドミントンも近年でこそ一般に広く行きわたりつつあり,ラケットを持っていてもテニスと間違えられることもなくなりましたが,諸先輩のお話しを伺ってみるとこの30年間という年月そのものが日本のバドミントンの歴史でもあると思います。慶応義塾体育会にあっては歴史の浅い我が部ではありますが,先輩各部の皆様を見習いつつ今日迄無事歩んで来ることが出来ました事を思い,今後共立派な活動を続けなくてはと決意を新らたにしております。かっては,日本のパドミントン界に名をはせた我が部も最近はどちらかと言うと戦績面ではパッとし

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ませんが,「学生スポーツとしてのあり方」を十二分に理解しつつ出来る限りの努力を重ねています。私自身吉田先輩のあとを受継ぎ監督という大役を引き受けてから早や4年目を迎えますが,最近の学生スポーッ選手についてまだまだもの足りないもの一以前と比較するのは極めてむつかしい訳ですが一を感じ,何とかしてバドミントンを通じて学生時代を意義あるものとして生かせる様なバドミントン部確立に向って部員ともども話し合い頑張りたいと思っています。またさらに,私を含めた部員全員の念願でもある早慶定期戦優勝を最重点目標にして練習を積重ねるつもりです。つぎにもう一つの願いでもある一部復帰をはかり,再び日本バドミントン界の桧舞台へと飛躍の道を目指して行きたいと思います。最後に現在まで温かくご支援いただいた塾体育会はじめ,日本バドミントン協会関係者の皆様に今後ともより一層のご指導をお願いする次第です。

 

祝創部30周年

日本バドミントン協会副会長

森友徳兵衛

(昭和19年卒)

昭和15年にバドミントンのラケットを握った私は,戦中戦後を経て知らない内に30有余年をこのスポーツ界に費して了ったことになる。のみならず現況から推し測れば一寸やそっとで足を抜く訳に行かない状態になって了っていて,“これは大変”と思う一方,人生の楽しい一面をこわすにしのびないという複雑な心境にある。

昭和和17年10月7日の午後3時神田の東京YMCA地下食堂で創設された我が慶応義塾大学バドミントン部は,輝やかしい競技歴と幾多の不朽の名選手を生み育て,結果として戦後目覚ましい興隆を承し他の競技に例を見ない急速な成功を納め,世界1位の女子チーム,同3位の男子チームを確固として創り上げた大きな実績の原動力となっている。このことは日本のバドミントン史をひもとく人の全てが例外なく認め称える処のものである。本年10月正に我が部は30周年となる。時移り人変って次々と我が部をになう者が誠意の努力を惜しまなかった積み重ねがこの黄金の歴史30年であり,幸せにも創部のメンバーの一員であった私は限りない喜びと誇りと,また周囲の方々,後継者の人々に対し感謝の念を新たにするものである。

昭和37年9月7日日吉に於て宮永主将のときに創部20周年が盛大に行なわれた。36年1月に日本バドミントン協会の理事長になった私は,丁度この時ジャカルタの第4回アジア競技大会に日本代表チーム監督として遠征中であったので,栄えの式典に参列する機を逸したのである。

慶応バドミントン部の価値は,ラグビー部やフェンシング部についても同じであると思うが,日本史のどの協会やチームに比しても歴史上,組織上最古であって負けることがないことである。歴代のキヤプテを一つとって見ても慶応に比するに足るものはなく,全て歴史が若い。また古いものがあったとしても,もうろうとして切れ目がある。歴史,記録の刻みが系統立ってきちんとしているのは何といっても大学の部であることの強みであると思、う。現在から将来にかけて後継者が同

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じように努力する限り,この誇りは永遠に続き追いつかれ追いぬかれることはあり得ないのであ

る。この上現在競技力が抜群で,日本代表チームに現役でもO.B.でもぞろりと名を連ねていれば錦上花をそえるに応わしいことでさろう。日本のバドミントンは世界に冠たる地位にある。併し我が部の競技力は少々わびしいーー大したこととはいえないまでも残念なことではある。

30年頃だったが,大阪のとある場所で私は加賀(旧仲地)君と我が部,我が0.B.の将来のあり

方について語り合ったことがある。結論は次の通りであった。今迄我々は我が国のトップレベルの選手を創り出すことに全力を注いだ。その結果各大学は強くなり,全国的にも普及が顕著となった。この目的は一応成功したと思うので,これからの我々は世界に対する日本のバドミントンを伸張発展せしめるために,良き指導者として一慶応のことより高次元の考え方をもって進むべく,現在O.B.を指導しようということであった。日本バドミントンの発展の原動力を我々がになおう,という