OB・OG会

創部20周年部誌

創部二十周年記念を迎えて

部長 白石孝

まず、創部二十周年をむかえ、諸君と共に、部の発展を心より祝いたいと思う。

バトミントン部は体育会の中では戦後の新しい部の一つである。それだけに、部の発展をはかるための0・B・学生の苦労も多いことであろう。殊に、慶応義塾でバドミントンをはじめ、クラブから体育会における一つの部にまでつくりあげた当時の0・B諸君の努力は、非常なものであったろうと推察している。そして、このパイオニアの時代から今日まで新しい伝統をつくりあげて来た人々の活躍も、吾々として忘れ難いものがある。これらの0・B諸君の努力は、ただ塾のバドミントン部の創設から発展に賃献しただけではなかった。わが国におけるバドミントン界を刺激し、その育成と発展にも寄与するところがあったといっても過言ではない。その意味では、部の二十周年をむかえて改めてかえりみる年月は、わが国のバドミントン界の発展史の一駒でもありはしないだろうか。

私が奥井部長の塾長就任にともなってそのあとをうけて部長になってから、もう数年になる。他の体有会の部に比して、数少い0.Bがつくりあげたこのバトミントン部が、学生スポーツの神髄を発揮して健全に発展してゆくのを、ただ見守る役目しかもたなかったが、心では良い部の部長となったと満足し、これまでの努力にむくいるところがあればと考えてきたつもりである。しかし、塾がバドミントン界のパイオニアとしての役割を果した後、直面したのは他校の著しい技術の向上であり、競技は次第に苦しいものとなった。私が部長に就任した時は、丁度その転換期にぷつかっていたかと思う。競技成績は、そのため逐年かんばしくなく、0・B諸君に切歯扼腕の思いをさせて来たことは、

なんといっても残念である。

 ここに、、二十周年記念をむかえ、これまでの足跡をかえりみ、捲土重来を期する気魂をもって技をみがき、部が一層健全に発展してゆくことを、共に期待してゆきたいと思う。


おもいでのあれこれ

奥井復太郎

 時というものは永いものか、短いものか。わがバドミントン部が創立二十年ということでその憶出を乞われたが、この二十年、本当に永かったのか短かかっだのか。

森友さんとはその在学時代、別のことでも知り合いであったが、バドミントン練習のため白金小学校(?)の体育館を借りたいがと、当時学生局(今で云えば学生部)に勤務していた私のところにそのあっせんを求められた時にはじまる。私は子供の時から羽根りきが上手で、そのためか西洋版であるバドミントンには好意を持つことになったとも云える。部長として関係するようになったのは、その直後か、葉山町、つまり私の近所に住んでいた当時の仲地君が口を切ったことからである。前記の好意、つまり私の主体的条件も整っているので易々と承諾してしまった事が今日に及んでいるもとなのである。あげくのはて、全日本学生連盟の会長にすら推され、それも今日まで永年にわたってその席に留まっている。

 故に永いとも云えるし短かいとも云える。待望の体育会入籍も成就したが、そめ後、近来この大事な部の部勢振わぬことは、いささか淋しい。先輩や部員諸君が皆、一生懸命にやってくれているのだが、ごれが塾の学校としての性格によるものか、こんな始末に切歯扼腕こそしないが、何んと申しても意気大いにあがるとはまいらぬていである。

 この年間を顧みるといろいろの事があった。幼稚舎の体育館を使わせてもらっていた。いろいろ文.句もいいながらも、何んといっても本当に有難かったと申上げる以外にない。日吉記念館が出来て、あのようにこの問題が解決するということは当時として到底予想が立てにくかったから。

 潮田塾長の頃に、大ホール再建の議があり、百年祭式場の事が話題に上ったが、その頃から私は、将来の学内行事の会場は数千人を容れる規模でなければ駄目と考え、更にそういう大建築となり、平素常時に利用出来るということを考えるならば体育館的(屋内競技用)に設計する以外にないと思考して、体育館兼大講堂案を提唱した。幸いこの議が容れられて日吉記念館となったのだが、それが為に、独特な設計を以て、現在ある型で誕生したわけである。「記念館」と名づけられて、体育館と呼ばない理由もそこにあったので私としては、ひそかにこれでバドミントン部の問題も片づくとホッとした次第であった。文字通り平素は屋内体育の殿堂であり乍ら、一朝事ある時には内外共に荘厳な記念堂として利用出来ることは何よりもうれしい事である。

人の事について云えば森友さんの監督時代からはじまる。「わが交遊録」に私の名を森友さんがのせてくれた為、諸方面から私とバドミントンとを結びつけてくれる事となった。結びつけるといえば、大会の催される地方では三田会の先輩の方々に有力な応援をしていただいたのもたのしい思い出である。次に吹野さん、その時に前田さんが助監督だったり、そして岡君という順序だったかしら。

私が関係していた頃活躍していた選手は藤井君、それに次いでか広田君、その頃から私も大分判って来はじめたということになる。インドネシァのイスマイリ君も現れた神戸での大会は印象的だった。

 部の憶い出でなく選手権大会のことにもなるが神戸の大会で吉原と江井とが激戦をして、吉原君のケイレンで試合が一時中断したこと、京都では女子軍大いに振って多分三位か二位に上ったのはよかったが、男子軍の声援が少々はげしすぎたらしいこと。その時がんばったらしいだれそれ君の顔も浮ぶ。この時は全体に試合が長びいて、会長自身が閉会式をやれず、所定の夜行で帰京してしまったこと。東西対抗大阪の陣では出場メンバー変更のことで大いに揉め、それに腐っでか、東軍が大敗、立教の佐藤までがシングルで負けるという始末。

そう書いて来ると私自身もバドミントンには少なからず、変なまわりあわせがある。大阪では(東西対抗)体育館内の酷しい寒さのため発熱し、とうとう列車に乗るまでの数時間、大先輩T氏のお宅にね込むという始末。このT氏それ以来もしたしくおつき合いねがっていたが先頃なくなられた。京都では丁度文部省の用で出張していたのと大会とが一緒になったが、大学視察の仕事がきつかったので大会がはじまった頃は旅先の宿で病臥中ということ。札幌では夏ではあったが夜中冷えるのでビ↓

ールをのみ過ぎたのがたたってお腹をこわす……なぞどうも散々な始末。その度に皆さんに御迷惑をかけたことばかし。

 でもこの部を通じて皆さんと親しくしているのは本当にうれしい。若い諸君の結婚式にまねかれて御慶び申し上げた事も少くないが、他の大学の方々のそれにまで御招きをうけるに及んだことなぞは.塾のバドミントンのお蔭というより他にない。

 と、いうことで永い間皆さんと一緒であったことを改めてよろこぶ次第であります。


こもごも

兵藤昌彦

昭和十年頃、横浜YMCAデンマーク基本体操クラスでは体操終了後、残った時間をバレー・ボール、バスケット.ポール、バドミントン等のゲームをして過していた。そのうち同好の士が集って、バドミントン・クラスを設けて練習するようになった。

昭和十三年四月、小生の友人から大阪の親籍の者で山本孝二というのが塾に入って、横浜のYMCAのアパートに居るからよろしく頼むと云われ、同君を探し、運動は何をやるかど尋ねたら何もやらないとの返事なので、学生時代の良い想い出として、Yに

泊まっているのだしするから、パドミントンをおやりなさいと勧めた。一方、同時に北海道から塾に入り、同じアパート内の佐藤保君にもやるように勧めた。それから間もなく医学部一年の満州国出身の寿君が仲間に入ってぎた。この人も同じアパートの住

人、長身の好青年であった。塾の一年生三人が集って楽しく練習した。斯くしているうちに、アパート住人以外の塾生も加わって,きた。その一人に加賀君(旧姓仲地)がいる。現在、大阪に居られ、先隼、神戸でのインカレの時には、遠路神戸まで毎日足をは

こばれ大変御世話をして下さった。又、大阪で優勝祝賀会を催して下さる等種々御配慮いただいた。紙上を借りて御礼申し上げる。下阪の折りには御拝眉願っている。

現役諸君、良い先輩ですぞ。

大阪に行かれた時には、是非御尋ね下さい。そして、現況をお聞かせ下さい。喜んでくれますよ。

夏休みになると、大阪・神戸のYMCAに遠征、(そのメンバーは殆んど塾生であった)又横浜YCCAともよく練習ゲームを行った。YMCAで練習していた塾生諸君が、友人に呼びかけて出来たのが今日の体育会バドミントン部の前身慶応バドミントンクラブである。学校でやるからには、先生方に理解していただこうと、クラブ員と共に三田山上の教員のクラブ・ハウス(現在大学院のある所)に伺い、照介旁々実演を二・三回いたしました。同所の庭、それから幼稚舎(現在の体育会本部前の広場)で、その時、寺尾、奥井、加田の諸先生方がプレーして下さった。

昭和十八年十月八日この日はYCACとゲームを行う予定であった。朝のニユースは第二次世界大職に入った旨を報じた。試合は当然中止、張り切ったクラスの面々は残念がったことであろう。翌年八月小生出征、外地で学徒出陣を聞いた。終戦翌年六月病人として帰国、戸塚の国立病院に入院中、横浜YMCAの広田兼敏さんが病気見舞に見えた。自然と話は戦時中の模様、Yのバドミントンめ様子等であった。

 そして新しい協会作りの話を伺った(戦前神奈川県に、横浜YMCA、ナルトスポーツ、コロンビア、古河電線の四クラブに依って協会が出来ていた。春秋二回リーグ戦等が行われていた。この協会は我国最初のものだろう。)

秋の某日、病院を抜け出して、東京田村町角の喫茶店で前記の広田さんに藤井光男君(O・B)と小生の三人で日本協会の設立について相談した。

終戦直後の塾クラブの諸君はシャトルコックが今日の様に充分なく、鶏の羽根を集めてつくる等大変苦労した様である。

終戦後、大学の制度が改められ、大学の必須科の一つとして体育(講義・実技)が加えられた。実技の選択種目には三十四種のスポーツがある。勿論この中にバドミントンも含まれている。

当初、大学に体育館がないので、三田三十三番教室で、机を取り出してコートニ面を作りネットを張って、乱打、ゲームを行った。此処は天井が低く、それに上から電燈が下っていて、ハイ・クリアが出来ず殆んどドリブン・アライト、ドロップ・ショットしか出来なかった。学生数も少かったので一応プレイする事が出来た。

次いで、幼稚舎の体育館を借用して行った。コートは二面で、一面に約四十名、総数八十名前後の学生が参加した。プレイするより自分の番を待っている時間の方が多かった。中にはグラウンドに出て乱打するものもあった。後に、午前の分、午後の分に分けて授業した。学生の方は半日で済むが指導を担当する側は午前八時より午後五時まで、一日八時間を十日間日曜日なしの連続であった。

バドミントンを選択する学生が多くなり、幼稚舎では実施する事が出来なくなった。塾外の体育館を物色、幸い横浜の神奈川体育館を全日、十日間借用する事が出来た。此処は、中央にコート四面、周囲は充分広く、コート外で、楽に乱打する事が出来た。然しトタン板一枚の屋根なので午後になると蒸風揖の様に暑く、学生、指導員共に非常に疲れた。

斯くの如く、居候の様に各所を二、三年毎に点々と借り歩いて廻った。久しく待望していた記念舘が出来て、学内で実施出来る様になった事は部員と共に慶びに堪えない。

昨年までは、南北の硝子に面して三面の常設コートが抽かれている。実技の時にはこのコートの両側(バスケットボール・コート、器械体操場)に平行して、臨時に六面を抽き計九面で、約一八○名の学生がプレーを行った。硝子に面してプレーするので白いシャトルが硝子の中に入って見えなくなる。それを見逃がすまいと見るので眼が疲れてたまらなかった。実技の折りばかりでなく、部員の練習も同様に骨をおっていた。

前々から希望していたコートの向き(東西)の変更が今春叶った。練習が楽になった上に、更らに一面増加即ち四面になったので今までより多く練習出来るようになった事はこの上もない喜びである。又、実技の方もこれにならって両側に四面宛計十二面、記念館一杯にコートが抽かれ、従来、練習するよりも他人のプレーを見ている時間の方が長かっだが、今年よりは一面約十名で練習するので休む暇がない位であった。この様に、十二分に出来る様にするために午前の分と午後の分の二部制にし、一部四時間で、残暑厳しい八月二十二日~三十一日の十日間実施した。

他方、数年前より通信教育夏期スクーリングの際、通学生と同様に、体育実技の一種目としてバドミントンが行われた。今年は

一○○名、一日二時間で、五日間であったが八月初旬の熱い時であった。夏期休㍊中二面も、部員諸君に御手伝願っている。体育会各部とも同じ様にやっているとは云え、部員諸君の御苦労に厚く御礼申し上げる。

先輩諸君

今年部の合宿は前記の如く記念館で行われた。若手のO・B諸兄が指導に見えたが、古いO・B諸君がお見えにならなかった様真に残念、老けこむのは早すぎる。自分から老年になるな、他の部のO・Bは熱心ですぞ、今春のリーグ戦の結果、御忘れでないと思います。責任を現役のみに帰することは出来ない。老舗に頼っていてはだめだ。のれんに頼るな。

学生界否日本のバドミントン界をリードした塾、塾=バドミントン、バドミントン=塾、長い黄金時代を想い出したまえ。

再びその日の来るのを期待して止まない。

部員、O・B共に頑張れ。頑張れ。

体育会六十年史、(慶応義熟体育会発行)参照あれたい


創部二十年に際して

日本バドミントン協会理事長

森友徳兵衛

姦に我が部創立二拾周年の佳日を迎え慶賀に勝えない次第である。

顧みて昭和十七年バドミントンを志す者が集り日本バドミントン史を飾るに応はしい一事をなした事の意義が非常に大きいものを感じる。時移り人変れど二拾年の星霜を光輝と伝統に飾って呉れた幾多の友人後継者達の努力に改めて深い感謝の念を贈る。

慶応義塾体育会バドミントン部の創設時代即ち高天原時代とも云える昭和十四年・五年の頃については、現在在京の畏友がないのでこの時代に触れるのは私の役目に外ならないのである。本文が私中心の文体となる事を諒とされたい。

私は昭和十四年に本塾普通部を修え経済学部予科に進学し、一年E組の末席を汚したのであるが、同級生に山本孝二(現大阪)加賀(旧姓仲地)幹雄(現神戸)諸岡良幸(現館山)等の諸君が

居た。又同年に佐藤保(現名寄)が居た事がひいては今日の日本のバドミントンがかくも大発展をなした原因となった訳である。

佐藤は北海道札幌市北海中学(旧制)出身、山本は大阪市北野中学(旧制)出身であったから横浜YMCA内のホステルに下宿して学校に通った。ここで彼等はその体育館で行われているバドミントンと云うスポーツを見、且つ体育主事であった広田兼敏氏(現日バ協副会長)や当時ツーリストビューロー勤務の塾員兵藤昌彦氏(現慶応大教授)からその基礎を指導されたのである。特に広田氏からはバドミントンルール、審判技術、用具関係等全てを学んだが佐藤保が山本孝二より少々(数ケ月か)早く門に入った。勿論後年全日本成年単選手権者となり、又一般男子の上位ランキングプレヤーとなった佐藤は体質にも恵まれそのブレンワーク、フットワーク、スマッシュの威力当時として極めて短期間

に他の追随を許さない成長ぶりを示した。続いて山本は華麗なフォームを身にっけ、苦しかるべきバドミントンに花やかさを添へ今日我が部に残っているタイプを作り出した功績は大きい、特にジャンピングスマッシュを創始したのは彼であったと云う事を私は疑わないものである。仲地(現加賀)は学校の隣席が山本であった関係と住所が横浜であった為誘われて昭和十五年頃二人に半歳の遅れを以てバドミントンの虜となった。定住で連日練習の機会に恵まれている彼等と当然技術の差があった事は無理ではなかった。当時のYMは全員がバラバラと集ってはそれぞれ適当にプレーを楽しんでいた所謂社交的バドミントンであって、春秋大会等に親善大会を開いていたクラブであった。

昭和十五年になると新入生として本塾医学部予科の寿祝嵩(満人)がYMCAのホステルに入り一緒に練習を初め、ひょろ長い身長と柔かい身体とリーチを活かしてすぐ上手になり仲地を抜いた様である。寿のプレーはO・Bの小宮兄弟によく似ている様に思う。複はこの頃から佐藤仲地組、山本寿組が組んでYMCAでは単複共一、二位を占めて、広田兵藤両氏外のYM会員を凌駕した。

扱私と諸岡はこの辺りから出番になって来るのだが、二人共東京神田に住み席もモリとモロでずっと隣り合い、彼は本塾商工学校の卒業等色々な点で行動を共にし、最初は田園クラブの会員となって硬式テニスをやっていた。私は十五年の終りに山本に誘われYMCAでラケットを握ったのである。私はぞの後暫くは本当の時たまでニケ月に一度位プレーをした程度のものであった。最初にYMCAを訪問した時に広田氏や兵藤氏と御交際を願う事になったのだが、その理由の一っとして私の叔父(父の弟)が本塾剣道部副主将をしていて、卒業後も横浜で貿易商を営む傍らYMCAで練習をしていた関係で、当時は叔父は出征中であったが、一度で懐んで戴いた事を覚えている。兵藤氏は剣道部で叔父の一年後輩であり、之亦懇情を賜る事となった次第である。昭和十六年には諸岡が私と共に時たまYMに行く様になり二人はYMの会員となった。この頃の私と諸岡はバドが従で硬庭が主であり、十六年十月学部へ進学すると共に田園クラブかち御茶の水ローンテニスクラブの会員となった。この間Yの人であった四名の学生の方はYCAC等と親善試合を行ったりしていたが、あく迄YMCAチームのメンバーとしてその時都合のよい者が適宜狩り集められて出た様なチーム編成であった。広田主事は勿論陣頭で単複共元気で活躍され広田、兵藤組は最近迄仲々大したものであった。

昭和十七年の春に、山本、仲地は慶大バドミントン部の創設の構想を初めて、私に相談があった。この頃になるとテニスよりバドミントンに魅せられて了っていた私は一も二もなく賛成し、共に手を携へ諸岡も同志として協力する事となった。問題はNo.1であり学部の違っている佐藤の動向如何であった。彼は巨に似合はず細かい神経の持主で(それ故にプレヤ」として大成した訳だが)趣旨として賛成するが横浜Yのメンバーを抜ける事はYのNo.1としての立場や今日迄の広田氏の恩義に背信するから嫌であると云う態度で煮え切らなかった。山本の考えとしてはYとの縁を切っ

てスッキリとした部(当時は体育会員である筈がないので、部の名称が使えず原語クラブを使ったが、全ての考え方は今迄のYMCAやYCAC等のクラブ的でなく、もうろう部員を許さない方針で部として出発したのであった。)にして本拠を干渉されない東京YMCAへ移そうと云うのであった。併し之には広田氏との誤解や(広田氏もプレヤーなので相当な神経質である)反対を怖れ、日吉から三田へ通学が変ったから便利な東京へ、と云う段取で進んだ。勿論横浜Yや東京Yの選手として出る時は部の関係ない時にしようと云う約束であった。寿については丁度四谷に変る都合で、その事に拘らず横浜Yは脱会して東京のホステルに変る機会であった処、全面賛成であった。彼には別に干渉とか我が部の自主性とか排他性とか(学生の今も変らぬ共通点であるがー)はテンから関係がなかつた。現実に彼は横浜ではやれないのであった。皆が東京で練習すれば彼にとっては願ったり叶ったり云う訳であった。佐藤の決心のため、かなり難渋したが山本、仲地以下の面々は仮に佐藤が入部してくれなくても団体戦で当って一番強いと思はれる横浜Yにも絶対に負けないと云う計画だけは立てた。山本・寿・仲地・森友・諸岡で勝てる訳なのである。併し佐藤・山本の間では次の様な法則が取決められて解決に到達した様だった。即ち佐藤は東電部員たる以上、東電との対抗戦に対手側として出る訳には行かない。又横浜Yにも今迄世話になった関係上その対手側に廻る事も出来ない。

即ち慶応チームが横浜Yと試合する時のみ欠席し、Y軍にも入らない。その他は全て慶大部員であると云ったものである。私としては佐藤も塾生として我部の為に同一行動するべきであると強硬に山本に対し主張し、結局結果的にはその様に落ついた事は喜ばしい事であった。山本や私の考え方はYから離れる事が発展であり前進であったのであり、佐藤は浪花節があったのであろう。

後から考えれぱ誠に若かったと云う事だろうが勿論広田氏は腹の小さい人ではなく結成後の佐藤以下のメンメンに何くれとなく面倒を見暖かい気持で日本のバドミントンの為に育てて貰ったので、部の創設に学校関係をかけ廻って戴いた兵藤氏を生みの親とするならば、技術や行動に力を貸して戴いた広田氏は育ての親であると云う事が云えるのである。後年広田氏の長男敏秀氏を終戦後我が部不滅の名プレヤーとして迎える事になったのである。

結果から見ればこの様にどうと云う事はないのだが、本当にその当時としては佐藤含めての我々の憶測は、佐藤・山本・寿・仲地の主力四名が分離した後の横浜YMの戦力低下についても心配したものであった。

その夏が終って十月に我々は学部二年に進級した。戦時体制下で軍事教練の盛であった頃である。山本の手によって他の部の部則を参考にし、慶大ハトミントン部(慶大鳥球クラフ)-KBC(体育会入会と共に奥井部長の手によりKBAと改称した)部則がまとまった。当時バドミントンの和訳に羽球と鳥球と二つがあったが、我々は合議で鳥球の文字を使用した。語呂がよくて、又空飛ぶ白鳥を猟銃で撃つのを模したバドミントンの実体をよく表しているからであった。

工ース佐藤の決心も前述の通り定まったので十月七日の三時に


為と云う程の練習をする人は居ず、幸いな事に私の次第に上達して来たプレーを破る人が出て来なかった。我々は月水金を練習日に定めバドミントンの時間は二面を、他の時間は一面を張って練習し、又昼でも他の時間で空いている限り一面のみは勝手に張って使った。職員は好意を持って見ぬふりをしてくれ、他競技はパスヶット等半面で練習していて呉れた。それでもバスヶットの時間にはバスケの人達が我々に空けてくれる様丁重に頼んで来た。この様な時は当然我々はすぐネットを外した。全体に今のスポーツマンに比して紳士で(余裕のある人のみがやっていたせいかもしれない)戦前ロッカーに入れ放しにしてあった運動靴(当時は貴重品である)が戦後そのままあった(使えなかったが)程で、その辺に置き忘れた物等は決して何日経ってもなくなるとは想像もしなかった位であった。この点今の人達は歎わしいと思う。

戦争中なのでスポーツの利用度が低かったにせよ我々をバドの先生乃至指導員として扱ってくれて、「お願いします教えて下さい」「有がとうございました」ときちんとしている彼等スポーツマンとYの職員達皆の好意を忘れる事は出来ない。本田さんは現在催さんと称され六月四日初めて協会から韓国に遠征軍を出す現在協力すると云う電話を戴いている。

私は十月に新入部員募集のポスターをポスターカラーで作成し弟の居る日吉へ出かけ第一食堂の壁へ二人で貼った。カべ色地に黒でネットにその向う側にプレヤーを影に潰して書いたものである。又コンパスを使って三色の楯の両側に羽の拡がった部章も私が作成した金なにがしで作成して部員は全部それを着用した。部員の入部申込はポスターを見て弟の所へ出た。六角勉(現むすみ)榎本延二郎(戦死)で予科一年生であった。六角は浅野綜合

中学(旧制)出で熱心な部員となり戦後直ちに弟と部を復活し、新入生を仕込み、昭和二十一年に弟が卒業の後幾多の名選手を養成して、各大学に普及、関東学連を結成し初代の委員長となり卒業後日本バドミントン協会常務理事として全日本学連の創設、第一回インターカレッヂ(横浜市)の開催と華々しくバドミントン界に貢献し、藤井、広田の名手の良きリーダーとして我が部史に残る人である。戦前六角榎本のペアが入った時東京Yで最も良く走り廻って上達したのは六角であった。私は家がYの近くなので、六角氏は私が手をとって仕込んだつもりで、いわぱマナ弟子だと思っている。勿論戦後彼は大いに技術を伸ばし当時の事はほんの手ほどき位しか役に立たなかったろうが、ネットプレー、スマッシュ、バックハンドと彼はよく走り廻って努力を重ねたものである。外の者ではこの新しいスポーツに彼程走り廻されたらば嫌になって去って行ったに違いないと思う。彼が乗り越えてくれなけれぱ戦後の学生バドミントンの興隆は大部テンポが変っていたに違いない。

二人の外に星、折田、吹野氏等が入部した。私もこの頃になると覚え初めに負けていた横浜Yの人に勝つ様になった。中国人の寧(にん)さんや韓国人で法大生だった松浦さんにも問題なく勝つ事が出来た。

当時十月が学生の切り代えであったので昭和十七年十月から私達は学部二年、弟は予科三年、寿君は東京Yヘホステルを代えて医学部の一年生で四谷に通った。私は寿がYに居るので寿と一番練習をした。二人だけの日が多かった。寿には勝つ事もあったし、山本と練習した時ゲームを取った事もあった。アメをくれたのかも知れない。佐藤とは殆ど練習出来なかった。試合の日に顔を合せる位で、定期練習には来なかった。事情があったのであろう。佐藤には勝つ機会がなかったにせよ格段の差がある。

昭和十八年六月十三日(日)YCAC(横浜外人クラブ)と対戦し八-一で快勝した。単六複三で次の通りである。(六月十五日(火)ニッポンタイムスの記事)記事中佐藤キャプテンとあるのはNo.1の意味かと思う。

仲地は出なかった。又諸岡がセッティングを十四オールでやっているが、三点が本当で十七-十四の間違いかと思う。

この勝利は私と諸岡の複を落したのみで勝ったが、大いに自信を深めたものである。シード順なので強い所は佐藤、山本が潰してくれた。私はNo.ωシングルとNo.3ダブルスで出た訳である。この企画は山本が横浜で全部やってくれた。

次に私達はタイ国の留日学生が試合をしたいと云う申し込みがあると云うので勇躍してその計画に入った。当時の用具の点については勿論スチールシャフト以前のナルト製全木製(戦後も随分使われた)ラケット及び羽根を使用し、出征直前の頃ナルトの新製品竹製ラケットを使った。ガットは牛のセ、、、シープ或は鯨筋やシルクを使ったが、シルクは好まなかった。横浜YMCAに行くと広田氏がRSL等のとっておきの外国品を使わせてくれた事を覚えている。中には黒羽根の感じの良いものを出してもらった。

ナルトの岡さんや津田さんは自分もプレーをしていたが、本当に私達がお世話になり又バドミントン界全体もこの方面で恩恵を受けた大功労者であったことを記憶しておかねばならない。

現タイ国のウィチエンとウィチャイ、ブラナスリ兄弟とかソンマイ、フンタラクーンだとか何とかワタカーンとかの面々は何れも東大や早大の留学生で、或いは卒業後母国の役人となるため、農林省や商工省(通産省)に派遣されている若者で、ヨチヨチ歩きの頃からバドミントンをやっている人たちであった。

この試合は私達が本当に勝つ自信は殆んど無かったと云えるが、知らぬ者の強さで〃どん"と行こうと云う事になっていた。

私がブラナスリ兄と新橋の第一ホテルのロビーで待合せ交渉に入った。会場は東京YMCAが本田さんの肝入りで日泰両国の国旗を揚げて力を入れてくれた。主審にはYCACの時と同様安井哲永(韓国人)、副審には松浦氏や本田氏が当ってくれることになった。私の方は当然六単三複で対戦する事を疑がわなかったが意外や五単五複との申し出なので驚いた。私の方は何れも6―3でやって来たのでその他は考えられないと申し、相手はダブルス中心だから一歩も譲れぬとアワヤ話はこわれそうになった。止むをえない私は同点になったら困るからと云ってやっと6単、5複で相手と一致したのであった。当分は山本主将と相談して6―3のつもりで行こうぜと云い兎に角、複のニチームを編成する事になった。

単は佐藤、山本、寿、仲地、私、六角、複は佐藤・仲地、山本・寿、森友・諸岡、伊東・村上、本田・花島の堂々たるシードで

,った。尚これは当時の我が部の半分で残留組には広田、前田、戸田、高見、中沢、斉藤(孝)等ゾクゾク居て我が部の厚さを誇ったものである。

昭和二十六年前田主将の時晴れて宿願の体育会に入会が達成した。従来の戦績を認めて貰ったのだが、この年の五月、私の結婚寸前に我が部初めてのダンスパーティを目黒の雅徐園ボールルームで開き大成功であった。創部十年体育会入会記念を銘打ってバンドの途中で私が来客に記念の挨拶をした。

昭和二十七年広田主将の時、今のユニフォームを制定し、ソックスも揃えたが、ソックスはすぐ縮んでしまって使えなくなった。マークは私のアイデアを尊重して永く部員が使ってくれでいた。慶応コールは広田主将の時神戸のインカレで対立大団体決勝戦で初めて使用し立大勢をポカンとさせた。勿論合宿の時から練習していたのである。このインカレ決勝は私にとって思い出が深い。高見副将の活躍も見逃せないが、岡の奮戦により立大服部を下した功績は大きい。新人吉原は個人戦で江井(当時関東学院一年生で後塾に入り主将を勤めた)にひねられて足のケイレンを引起し、その為二日間休養させて最終日北大(神山主将)との準決から使った。玉越立大主将との単は玉越君の穴をつかせる策戦で戦前から勝目があった。

彼のグルグル両足に巻いたほうたいが印象的であった。広田が個人戦決勝で立大佐藤に勝ったが左足首を捻座して団体戦は岡、広田の複のみびっこを引き引き勝ち進み、単はラストに置き、全て出場させずに単二で勝負を決めた。立教は広田の故障に気が付かない(ぴっこは三味線と思った)で、佐藤-広田が単三となってがっかりしていた様だった。ホープ佐藤が必ず個人戦の様に広田に潰されると思った様だった。慶大は誰と当っても負けると云う広田をラストに置き、不戦で勝つためには佐藤がラストになるより外に道はなく、この予想は当った。佐藤は広田の故障を見抜き二-二となれば勝つと予測した只一人の男だったろう。岡.吉原の出し方については服部玉腰の出方一つで(佐藤はラストと信じていたので)負傷の吉原は服部の敵ではなく、岡が服部の潰し役であった。会場の外で広田と二人腰を下し三〇分位迷った挙句「監督さん決めて下さい」と云う広田の言葉で、ホープ岡のトップが決った。逆に当ったらば、と思うとゾッとするが二-二になれば広田の事だから這い廻っても佐藤に勝ったかもしれないと云う気もする。これでインカレは、初回以来藤井(横浜)前田(東京)広田(神戸)と三連覇した。奥井部長(学連会長)が観戦されインドネシアから貿易商として丁度来日していた元部員で小宮(兄)のパートナーイスマエル君も応援に来た。

このインカレの開幕前日に第一回の東西学生対抗が単十複五で行われ、東軍監督を私、西軍監督を加賀(旧姓仲地)が勤め、主将は東広田、西大圃(関学)君であった。確か十三ー二位で勝ったと思う。法政は五十嵐、藤川君、明治は鈴木(峻)萩原(誠)君等が居た。この大会から早大が津田主将の下にインカレに参加した。

昭和二十八年朝倉主将の時石田、藤井(昂)の両新鋭が入学し玉腰をして「叉慶応さんか」と嘆かせ彼は卒業して行ったがその春は立大のファイトに会って初優勝を遂げさせ、予想外の二位であった五月の新潟全日本は私もカッッカッとしていたので全員張り切り、この年の成年単は北海道佐藤O・.B、一般男子単は広田新O・B、同三位は藤井昂(現役)同複は吉原、藤井、二位は岡・石田とズラリとカップを揃え大いにハドミントンKEIOの溜飲

を下げた。

この記念の写真と、前の神戸インカレ三連覇の量を別掲とする。

幸のウラに不幸がある。春のリーグの不覚を徹底的に叩こうとした私にとって藤井昂一の体育会診断は正に鉄槌であった。彼は二年の休部(一年の休学)を余義なくされたが、私は粒の良い手駒があり、秋には絶対勝てる自信があった。だが試練は尚我が部に襲いかかったのである。石田が肩を抜いた。朝倉主将が盲腸になった。この三発が効けばどんなチームでも優勝は望めないであろう。朝倉には代理主将として内田副将を用意したが、幸い手術せず散してリーグに出たが、元気がある筈がない。関東学院にも破れた日の控え室で吉原二年生がつぶやいた「今年の卒業生は気の毒だね」と。この自嘲は私を本当に暗い気持にした。ここで選手を叩き直さねぱならないと感じた。甘い夢は去ったのだ。立教には佐藤、山崎、新倉、望月、力石、金井が集った。来年の片石が入り・伏島・野島、越川が入る日を待たねばならないと思った。十一月の仙台インカレは正にこのポイントである。三単二複は岡、吉原、小宮(弟)でやれる」とその事を考えたが、実際は仙台には藤井光男と代理監督として出さなければならなくなった。仙台で立教に決勝で破れ四連勝の夢も破れた。春秋とインカレのタイトルは立教にとられて了った。

吹野君は三代目の監暫として前田君を助監督として、昭和二十九年岡主将小宮(弟)副将とガッチリ組んで春秋のリーグ戦を優勝で飾った。春のリーグで立教に勝った日、涙が出そうになって困った。この年は片石入学は失敗したが、越川、江井が入学し活躍したのだが何といっても気分を一新して優勝に導いた監督の功績が大きい。

部長先生に就いては前述の通り戦前は寺尾先生が就任して戴き予科は医学部の森安正先生が副部長になって戴いて弟や六角が予科生の折、大変御世話になった。

戦後矢張り兵藤氏の御骨折りで奥井先生が二代目の部長として御引受下さって爾来、先生が塾長の要職に就かれるのを機会に現部長の白石先生に移った。

奥井先生は戦前バドミントンの御経験が有り御上手であることは前に記した通りであるが私の弟が二人先生の御子息と同級であったので私の姓は先生の御記憶にあった様である。先生の御尽力で体育会に入会出来た事は云うまでもないが、昭和二十一年に現役に対する必要から我々でO・B会三田バドミントンクラブを発足させた時O・B会の会長を兼任して載いた。先生の渡米期間があり。その問石丸先生と気賀先生に伐理部長を御務め願った。奥井先生は初代学連会長として今日まで学連の父として連盟発展に寄与されて居られる事は周知である。塾長になられて部長をする事が出来ないという理由で白石先生と代わられたのだが、我々が

たって御願いして学連会長と三田クラブ会長(この時から三田クラブは会長、部長白石先生委員長私)に御留任願った。私がのになった時委員長を吹野君と交替した。奥井先生の時の副部長に高校の川上先生、現在は奥野先生をわずらわして居る。

奥井先生の時女子に力を入れる様御指示があり、女子高橋(現、上杉夫人)佐藤(現、片石夫人)藤林(現、牧夫人)を擁してインカレ初優勝を成し遂げた事は記憶に新たな所である。

私の監督就任当時は東京都バドミントン協会の理事長と日本バドミントン協会の常務理事を務めていたので三本立であったが矛盾を生じるので、協会の方を両方共辞任し学校一本でやって来,た-従って吹野君と交替した二十八年暮から再度東京都の理事長

に引出された。昭和三十二年四月迄は0・B会の方だけで暫くの間私が何にもバドミントン界の役に立たなかった期間を過ごしたのである。(昭和十九年卒)

(三七・五・三〇)

岡道明

今年で創立二十周年を迎えた、塾バドミントン部。

ここに栄えある記念式典を終え、奥井先生を初め歴代部長先生諸先輩のご苦労とご尽力に対して感謝すると共に、現役諸君の健斗を祈るものです。'

思えば二十周年の我が部の歩みは、日本バドミントン界の歩みでもあります。故に、塾バドミントン部の誇りは、日本の誇りなのだと考えて精進していただきたい。又、井の中の蛙になることなく、広いビジョンで練習をして、試合に臨んで欲しいのであります。最近は他株の技量も充実している時、大いに奮起してもらいたい。何も伝統だけにこだわることなぐ、伝統にプラスされた新しいテクニックを大いに採用して、且つ生み出して、名実ともに塾バドミントン道ここにあり!と我が国のバドミントン界に新風を送っていただきたいのであります。諸先輩方が苦労した頃に比べると、設備といい、色々な諸条件が整っている現在だから、やろう!と思えばやれる筈です。諸先輩の築いた土台に、りっぱな

柱や支えを建てて欲しいのです。そのためには、出来る範囲で、OB百人余の皆さんは、惜しみなく協力するでしょう。

塾バドミントン部に、いや日本のバドミントン界に新しい歴史の一ページを送って欲しい。■(昭和三十年度卒業)


NIPPONTIMES,TUESDAY,JUN:E15,1943

KEIOUNIVERSITYBEATSY.C,A.C.INBADMINTON

CollegiansMakeCleanSweepInSinglesEventsPlayedAtYokohamaY、MC.A

Displayingbrillantform,thepowerfulKeioUniversitybadmintonplayersranrougbshodover

theYokohamaCountryandAthleticClubShuttlersinamatchheldontheYokobamaY・M・C・A・

flooronSundaya士temoon,ThecollegiansfromTokyomadeacleansweepinthesinglesevents,

takingsixstraightmatchesbesidesannexingtwoofthethreeeventsinthemen'sdoubles-

Sato,theNo.1Keiorepresentative,whoincidentallyratesastheleadingplayerin.Kanto,had

littledi田cultyinturningbacktheClub'saceplayer,CaptainAgajan,instraightsetsbythescores

ofユ5-6and15-5.

Inbothgames,Agajanheldtheleadonlytolose,itwhenhisopponentcameupfrombehindto

winhandilywithpowerfulplacementsandaccuratedrop-shots:'"Bucky"Harriss,playinginthe

No.2slotfortheYokohamaplayersalsodroppedhismatchintwosetsbythescoresof15-5and

ユ5-11.Yamamotocompletelyoverpoweredhisopponentinthefirstsetbuthemetwithstiffresis-

tanceinthesecondsetandwasfullyextendedtowin.

Sau,theianyKeioNo.3manplayedbrillantlytodownBoixoinstraightsetsbyユ5-6and15-3,

whileMoritomowonfromEastlake15-8,15-3.R.DaSilvawasdefeatedbyMorooka15-4and16-14・

withtheformermakingagamebidforthegameinthesecondset.Inthisset・DaSilvaled14to

12butcouldnotobtainthewinningPointandallowedbisoPPonenttocreepuptodeuceandthen

takethenexttwopointesforvictory.

WeissextendedRokkakutoa15.1田rstsetbutheweakenedtoenable'thelattertorunoutih

thesecondbytheonesidedscoreof15-4.

In the men's doubles, the Club's No. 3 combination of DaSilva and Boixo registered the only Club

victory by takingba hard fought three set match from Moritomo and Morooka. The Club players

started off strong and took the first set 15-12 but collansed badly in the second frame to allow the

Japanese to win 15-6. The third and last set was a closely contested affair and a strong last minute

drive enabled the Club players to take the set and match by a 15-13 count.

Another three set match resulted when Agajan and lEastlake were defeated by Sato and Orita

by the scores ol 15-13, 9-15 and 15-8. The Y. C. and A. C. pair missed a chance to win the first set

when they led 14-13 but an error at a critical time gave their opponents the set. the Yokohama

boys attacked strongly in the second frame and aided by Agajan's brilliant play they forged ahead

and won the set by a 15-9 count. The third and final set saw the Japanese pair improve in their

play with the result tnat they took the set and match by a 15-8 score.

Weiss and Harriss, the Club's No. 1 pair proved no match for Yamamoto and San who turned in

an easy two set victory by the scores of 15-8 and 15-6. The Y. C. and A. C. boys showed flashes

of brilliancy but on the whole their play was poor in comparison to the display turned in by their

opponents.

The teams follow:

Referee: Yasni.

Keio: Sato (captain), Yamamoto, San, Moritomo, Morooka, and Rokkaku.

Y. C. and A. C.: Agajan (captain), Harriss, Boixo, Eastlake, DaSilva, and Weiss



六角勉

昭和十七年四月日吉の銀杏並木の掲示板に部員募集の広告を見てより既に二十年、全く光陰矢の如くとか、改めて過去をしのびつつ今日のバドミントン部隆盛の為不断の努力を続けられた諸先生並びに諸先輩に祝詞を述べると共に後輩の諸氏と御同慶の意を表するものであります。此所に私が入部してより卒業する迄の特に終戦後の部の生立を記して何かの資となればと念じつつ記する次第です。御承知の如く昭和十七年発足当時はバドミントン倶楽部とて誕生し、私達四人(星、林、奥野)が当時練習所としてあったしYMCAの横浜並に東京に於て入部練習したもので、私は主として東京YMCAに於て当時全くの紅顔の美少年であった森友、諸岡、仲地、山本の諸先輩より訓陶を受けたものであります。入部以来幾日も経ずして有名なるスポーッ団体であった横浜YMCAと試合をなし、その後、昭和十八年に断髪令施行後、丸坊頭の諸先輩と共にタイ国留学生との間に全くのデッドヒートを演じ惜敗した事は未だに新しい記憶として掲げられて居った日の丸とタイ国国旗と共に思い出されるものであり、■次に学徒出陣の為同年暮に書後の練習をし、皆無事に帰還のみを心に念じてなごやかなる中に淋しい一時を過し、夕暮の美土代町の街角にて最後の別れをしたものであり、此の時の森友先輩との試合も忘れ得ぬものであります。

終戦を迎えた昭和二十年は我部員問の安否を連絡し合ったのみに終り、翌二十一年春に戦後初めての合同練翌を子.の後部の再建に御尽力を賜った広田兼敏氏の御世話に成り、横浜平楽小学校に於て行った次第であります。御承知の如く戦災に…京浜一帯は殆んど焼野原になり使用出来る雨天体操場を探すのが一番苦労でありまして天井の高いバドミントンが出来る場所と云えば、当時全くという程なく、有っても管理者にバドミントンと云う競技を道具を示して説明し、決して床、壁、特にガラスを破損しない運動である旨を述べ数日後に諾否を問う有様でした。倶楽部発足時は勿論当時などラケットを持って歩いて届ると小供達が親に「ラケットの赤ん坊みたいのを持っているよ」といわれ、其の親も勿論何に使うかも説明出来ぬぐわいであり、私など風H敷につつんで持歩いたものでした。私自身すら入部する時は、前述の部員募集広告にラケットの絵があったので中学時代にしたテニスと何か関係があるだろうと入部を申込んだ位でして、羽根を打つと聞いてがっかりしたものです。ましてや戦後の資材不足の時に満足に残って居らないガラスを壊すなどもっての外にて二度と借用出来ぬ有様であり、やっと借用出来ても練習試合中に壊れたガラス窓より風が吹込み、スマッシュした球が風に流されてラヶットに当らない打ち合っていてもラケットに当る位置が狂ってくるので思った所へ打ってやれぬ、天井も低いので球が当った時はノーカウントであるという練習をもったものです。前述の平楽にての練習は焼残ったラケットとシャトルコックにてやっと練習が開始したもので、先輩諸氏は既に操上げ卒業にて現役で残ったのは小生と森友次兄の唯二人になり此所よりバドミンーン倶楽部再建の途に入った次第です。前述の様に当時は唯喰うのにやっとであり皆が雑炊

にて過した食糧事情に運動する者特に何も知られて居らぬバドミントン部に入部するなど、張紙広告などでは思いもよらぬ事でありました。此所に今後の再建にマネージャーとして活躍して呉れた中学より同級の三橋公夫君と共に部員募集並に練習所、資材の確保に務め広田氏0御厚意に依り横浜YMCA(旧YMCAは進駐軍に接収)といっても現在の港中学の雨天体操場ですが、此所をホームコートとして二十一年夏より週二回の練習に入りました。此の当時の部員は約十二名位にて経済、政治学部の同級生と当時の専門部、獣医畜産の学生のみでした。一番困った事はやはり球の補給にて、当時は羽根が折れても全部大切に保存し、獣畜の学生が鶏の毛を持って来て呉れ此れを手分して羽根を植直し糸で締めセメダインで固めて次回の練習に使用したものです。球の錘の部分を包む皮が破れ㌣ハランスが崩れた時に始めて廃品となり、この間三度以上は直して使用出来たもので一方服装はまずまずという所ですが、裸足で練習して居った者が多く足指先より血をだすことも多くありました。時勢柄、先輩の援助も無く唯練習場費と羽根代を補なう収入があれば上出来にて、一時は部員が総出してキリンビール横浜工場にアルバイトに出ようと相談した事があります。

此の財政的苦難とは別に当時は試合相手が全くなく此の二十一年夏に横浜YMCAと戦後初の試合を公式にやったのみにて、当時の部を物心両面にて統一することは全く筆舌に尽き難いことでした。昭和二十二年度に入り初めて広田氏の御活躍によりバドミントン界も開拓され、神奈川県並に東京都選手権が昭和二十三年に閉催され、藤井、広田、小宮諸君の名プレーヤーの入部と共に各選手権にて必ず優勝をする慶応全盛時代が開かれたのです。此の気運に初めて二十三年に明治、立教法政に呼び掛けて関東学生バドミントン連盟を結成して、私が初代の委員長に成り、学連の地固めを始め、二十六年第一回の全日本学生バドミントン連盟結成並びに選手権大会が開かれたのです。

此の様に戦後バドミントン界が今日の姿まで発展した蔭には戦前より慶応が推進力と与、、又我が部の戦後の練習開始が今日のバドミントン界の隆盛を如何ほど早めたか、換言すれぱ隆盛の基礎は慶応にありと断言出来るものがあります。未筆ながら広田氏並びに塾員兵藤氏に部の再建に一方ならぬ御尽力を賜ったことを改めて御礼申し上げます。(昭和二十四年卒業)

たわごと

前田鑑二

当部も二十周年を迎え御同慶に存じます。小生もOBの頁として当部が歴史を造って行く事に心から喜ぴを感じております。ただ一抹の寂しさは発足の優勝に次ぐ優勝の伝統を維持して行けない処にあります。そこで現役及びこれからの人が本文を読んで精神面か、何かで若干でもプラスになれぱ幸いです。

小生、卒業後十年の余りも過ぎると、バドミントンよりもゴルフの方が性に合い時々出掛けては年寄りと一緒に終日ゴルフを楽しんでいるのですが、こうした時よく年輩の人々から聞く事は、「今の若い人には、一寸毛色の変った豪傑的な人が見当らない。若い時はあまり小さな事にこせこせしないで若さの行動をする。その方が将来は人間的な深みのあるスケールの大きい人になるような気がする。〃若人が若さを十分に発露すること"例えば、ゴルフのプレイで言うなら「曲っても良いから、思い切って力一杯カットバス、後の事はあとで又考えるさ。」しかし一般的な世の中の事はそうはいかない。何しろ幼稚園の入園でさえも試験地獄を経験し、苦しんでいる。これでは今後はたして若さを自覚し、若人の気概を持った人がどれくらい現れるのだろう。だから良く言えば近項の若い人は常識的に良くすれているんだ。」と。そして私自身も若い人の部類に入るかどうか解らないけれど、自分一人のことで先の先まで悩み自分一人を引っぱって行くのにあくせくしている現状です。(二十七年卒業)


二合五勺

大塚伊二夫

現役時代の思い出などと、急に言われても学生時代は相当社会学の方面が一生懸命?だったもので色々と、有り過ぎるくらいで何を書こうかと、まよってしまった。がバドミント部に居た頃の思い出としては、予科時代だと思うが、葉山に合宿した時だった。

朝特別早く?に起床させられ海岸を一時間程運動して朝食だった。腹のすいた時の運動は私には大変苦しかったものだ。

それで朝食となると、すき腹に一定料の食事となると、不足で腹八分迄とは行かず四分か五分位だった。同じ学生だった、前田永川、なども同じ事だったと思う。それで当時の監督の吹野さん(多分そうだったと思う)に食料増食を願った。それで多少増やしてもらいそれでもまだ不足だったので二合五勺の(夕食)を願い、夕食にライスカレー付二合五勺の飯をペロリ平げ、他の連中をあぜんとさせてしまい、翌朝は食べられずに過し、これでお昼迄もつかと(途中でバテテしまう)思った。

でも平気で過せた。でも程々に練習したせいもあったかもしれない。お昼にも食事で食べられずタ食迄通した。亦夕食のうまさは特別うまく感七た。

去年の事だったと思う。或る力士の家へ私用で行った時だった。力士になりたては、朝二時か三時に起きて家の中の掃除、兄弟子の朝食の支度、後片付けして自分達が食べる頃となるともう食べ物もなくなって食べることが出来ず、飯もぬきで後は稽古々々で夕方迄で夕方に二合五勺どころか六、七合のチャンコナベを食べるそうだ。その方が体の為にもよく稽古も良く出来るそうだ。こんな話を聞いて、ははあ俺の合宿時代によくまあそっくりだと自分一人で悦に入ったものだった。今の現役はどう有るかは御無沙汰して居て知らないが、やはり俺と同じ様な思いをして有者が居る様な気がする。(二十七年度卒業)

吉永増徳

私の入部は、塾内軟式野球サンダーフラッシュに在籍中兵藤先生に勧められ、部に昇格したぱかりのバドミントン部に入部したのが私が三年になった時で、御世辞にも新入とは云えなかったが、昭和二十六年春の新入戦に出場したのが、私が始めてゲームを戦った始まりで、早慶新人戦が一応勝負ついてからであったが、身体の震えが止まらなかったのを記憶して居るが・相手もインドネシアの留学生ソムノックだったと思うが・スコアはファイナルセットの末破れたが、その後明治、法政の試合ではストレート勝を続けたが、この勝った記憶意外に忘れて了って居て想い出せない。

次の想い出は、二十七年の全日本学生選手権のトーナメント戦で、一回戦に勝ち、二回戦にシード選手の法政のエースで、名前は忘れたがサウスポーの人で、彼から第一セット15―10の善戦丈はおぼえて居るが、結局ストレートで敗退した。

次はYMCAの東京選手権(国体?)で、高見とダブルスで三位となったのがやはり忘れられないが、自力の戦の想い出としては、余り華かなのはない様だが、何と云っても最大の想い出と云えぱ、当部のリーグ戦連覇、特に二十七年は当部創立以来・最大で最強の記録樹立で、後にも先にもこの時位の華かな時代は無かった。

全日本選手権を始めとして向う所敵なしで、全部のカップを独占した事と、そのパーフエクトの勝利を祝って、塾長公舎で馬術部とム尚,の祝賀会を開いて頂いた事と思、私は傍役として出席の栄に浴した夏、最高の想い出であると共に、この栄を招く為に努力した時の広田、小宮、前田各氏、及び現監督の岡君、吉原君、そして同級の高見君、岡崎君そして当時の先輩諸氏の御蔭と思って居り享が、部自体としては歴史が他部に比べ多少浅かったし、色々の点では貧しかったが、実力丈けは最強だったと思う。

その点、現役諸君も最大の努力は払われて居る様とは思うが、当時の貧しさから比べて恵まれた状況と思われるが、当時に比べて恵まれ過ぎて、何か不足し唐る様だが、私のひがみだろうか。

何はともあれ、先輩の栄光の歴史を高嶺の花として居ないで、その記録を塗り代えられん事を現部員諸志に御願いしたい。

(二十八年度卒業)

内田博道

私が生れて初めて女性からサインを求められ、大いに喜び、大いに驚き、大いに困惑した、私にとってのたのしいなつかしい一昔前の思い出をお話しさせて頂きます。

それはまだ各地でやっと熱意を入れはじめた頃でしたが・その中で特に普及の熱意のあった新潟市の協会から指導に来てほしいとの招待に、大先輩の森友徳兵衛監督に引卒され男女高校生、一般社会人と親善試合兼指導兼合宿という欲張った旅に出た時の事です。

我々が旅装を解いた所は、その名も「楽勝寺」という運動部の合宿にはもってこいの名前の格式ある立派なお寺で、本堂は雨の日に幼稚園の生徒に実演をしてみせた程大きく、それにもまして一驚したのが、三畳敷の部屋の中央にポッカリ穴を開けた様な大きなドッシリした畳敷のオトイレ、その中には立派な本台あり、タバコ盆ありでこれではゆっくり本など読みながら……と、それこそお話に聞いた大名屋敷のもかくやかと思わせるものをそなえた豪壮な建物でした。この結構なお寺の庭で、勤行の木魚の音を伴奏に、当時小壮実業家として意気衝天の観,のありました森友監督の「気をつけ」「休め」「気をつけ」という顔に似合わない(失礼)大号令で一日の日程が始まったのです。

合宿所から体育館までは毎日大型バスの送迎つき、会場にはバドミントンの愛好者であった当時のミス新潟が、女学生にまじって眼をかがやかせて、私共(いや私と思ったが)を、みつめているという非常に恵まれた合宿で、一同ミス新潟に大はりきり、日頃の3倍位のプレー、熱弁を振ったものでした。しかしこれも四日目位に、ミス新潟が彼氏と一緒に歩いているのを、丁度帰りのバスから見てしまい、一同のしょげようといったら。

とにかく無事目的も果たし、相互にそれ相応の効果をあげ、目出度く打あげとはなったのですが、その晩、地元のご好意で慰労会が催され、山海の珍味と名所にふさわしい銘酒がヅラリと食卓を飾り、一同、では一杯とお銚子に手を出そうとした時、監督さんに「解散する迄はお酒はタブーでございます」と明言されてしまい、面々ボソボソと珍味の方にハシを動かすばかり、実にもったいないことをしてしまいました。宴もたけなわになった頃、やおら協会の人が取り出したのが、長島茂雄君などが書いてよく店先に出て居る色紙、是非記念に皆様のサインを頂きたいとのお話しです。この時は寄せ書きでしたので、すらすらとこだわりなく名前を書き入れてすませたものです。